「プロ野球ドラフト会議 supported by リポビタンD」が26日、都内で行われる。

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ある程度覚悟はしていても、落ち込んでいるだろう。そう思って、ご飯に誘った。94年ドラフトで、大商大4年だった谷佳知はどの球団からも指名されなかった。ドラフト会議からしばらくして、2人で大阪・梅田のすし屋に行った。

「まあしゃあないがな」とか適当なことを言って、励ますというか、慰めるというか。カウンターに並んで座り「まあ、一杯飲もうや」と進めると「僕、酒飲めんのです」と言って、ウーロン茶か何かを飲みつつ、握りを食べていた。

不思議と長い付き合いだった。最初に取材したのは、記者が四国支社にいて、谷が尽誠学園1年だった冬、センバツの前取材。センバツも、ベスト4入りした夏の甲子園も、甲子園に行けなかった3年夏まで何度も顔を合わせた。その後、谷が大商大3年の時、大阪本社でアマチュア野球担当になって再会。その年の関西6大学秋季リーグで、谷は26安打、打率5割6分5厘のリーグ新記録で三冠王になった。広角に打ち分ける技術も、パンチ力もあった。俊足で肩も強く、守備もうまかった。

野球一筋と思えぬ、フツーの人でもあった。「夏の甲子園でホームランも打ったし、大学でも活躍してる。ようモテるやろ?」と聞くと「全然っすよ。尽誠の時かて、ファンレター来るのは全部(1年先輩で西武入りした)宮地(克彦)さんっすよ。俺になんかホンマになんも来ませんでした」とこぼしていた。

そんな男が指名漏れした。大活躍した3年と対照的に、4年でパッとしなかった。左右どちらかは忘れてしまったが、太もも裏に肉離れを起こしていた。当時、数人のスカウトに「谷、どうですか? 指名ありますかね?」と聞くと「3年の時なら、即戦力で間違いなく指名はあったと思うけど…」と口をそろえたように言い、決まって「けががなあ…。背も小さいやろ?」と聞かされた。谷の身長は173センチ。小柄と言えば、小柄だ。プロの評価はシビアで、3年の好調時を基準にしてはくれなかった。

けがさえなければ-。

その後少しして、谷は社会人野球の三菱自動車岡崎に入ることが決まった。「また頑張ります。もっと頑張って、プロになれるように」と気持ちを切り替えていた。

谷は翌年95年に都市対抗野球に出場し、同年のアトランタオリンピック(五輪)予選でも活躍、96年五輪本番も日本代表として銀メダル獲得に貢献した。人づてに「オリックスが谷を指名する」と聞いて「すごいがな。頑張ってるな」と電話した。「2位でって言ってくれてます」と大喜びしていた。どん底から2年後、96年ドラフトで当時のルールで逆指名をして、念願をかなえた。

オリックス、巨人で通算1928安打。高卒、大卒より遅い、24歳でプロ1年目を迎え、あと72本で名球会という数字を積み上げた。名バイプレーヤーは、プライベートでも女子柔道の五輪金メダリスト“ヤワラちゃん”こと田村亮子と結婚し、世間を驚かせた。

けがさえしなければ、94年ドラフトでおそらく指名されていた。だが、けががあったから、挫折があったから、谷佳知はプロ野球に名を刻む選手になれた気がする。【加藤裕一】