4球団競合の末に、ドラフト1位で近大・佐藤輝明内野手(21)が阪神に入団した。日刊スポーツでは誕生から、プロ入りまでの歩みを「佐藤輝ける成長の軌跡」と題し、10回連載でお届けします。第1回はわずか3歳で周囲を驚かせた仰天エピソードを紹介します。【取材・構成=奥田隼人】

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「体重3205グラム、身長49・8センチ」。佐藤輝明は99年3月13日に生を受けた。今では187センチ、94キロと恵まれた体格だが、誕生時は決して大きいサイズではなかった。母晶子のおなかにいる時から、医師には「大腿(だいたい)骨が短いですね」と言われていた。言葉通りに足は短く太く、とても丈夫だった。

父博信は身長180センチ超で柔道選手、母も身長は170センチ以上あった。両親は長男輝明が将来、身長2メートルに迫ることを想定。「大きくなってもいいように」とリビングのドアを従来のものから高さ2メートル40センチの特大サイズに変更するなど、さっそく家をリフォームした。

のちの阪神ドラフト1位は、3歳の時に早くもその片りんを見せた。またがって遊ぶことができるプラスチック製の車のおもちゃを買い与えられた。すぐにお気に入りになり、家の中だけでなく、両親と一緒に近くの公園によく“ドライブ”に出かけた。自宅から公園までは緩やかな下り坂と上り坂があった。輝明は力強く地面を蹴って、道路を疾走。「これはすごい。普通じゃない」。父はその姿に驚いた。天性の脚力を披露したのだ。

「車をこぐスピードが尋常ではなかった。両足を使って1回蹴るだけで、かなり進むんです。公園までは坂道をグアーッと下って、上り坂も足でシャーッとこいで。とにかく、そのスピードがすごかった」

野球に興味を持ったのは、祖父勲の影響だった。小学校入学前に初めてグラブを買い与えられ、野球人生がスタートした。兵庫・西宮市の甲東小では1年から「甲東ブルーサンダース」に入団。当初は利き手の右打ちだったが、イチローへの憧れから現在の左打ちとなった。近くのバッティングセンターで人生で初めて買ってもらったバットも、イチローモデルだった。

小学校では野球に没頭する日々。週末は少年野球チームでプレーし、平日は近くの公園で友人と白球を追いかけた。スラッガーの素質は当時から光っていた。輝明は公園のフェンスを飛び越す“場外ホームラン”を放ち、打球が道路に飛び出すことがあった。父は「当時は公園で野球ができるギリギリの時代でした。ボールが道路まで行っちゃうからヒヤヒヤでしたよ」と、明かした。

地元球団の阪神には愛着が湧き、ファンクラブにも入会。会員特典の黄色いユニホームを着て、両親に連れられ兄弟と甲子園に何度も足を運んだ。少年野球チームでは持ち前の野球センスで頭角を現し、捕手と投手の二刀流で活躍。「甲東の佐藤くん」という名は、次第に広まっていった。(敬称略、つづく)

【佐藤輝の怪力伝説】

◆ロングティー禁止令 兵庫・仁川学院高時代にグラウンドの一塁側ファウルゾーンから、左翼方向へ木製バットでロングティーを行うと、打球は防球ネットを越えて道路へ飛び出した。推定飛距離は150メートル。学校側は佐藤輝に「ロングティー禁止令」を出した。

◆窓ガラス破壊 仁川学院での自主練習日。三塁側ファウルゾーンから今度は道路側に向かってではなく、校舎に向かってこっそりロングティーを行った。パワーを抑えるため、折れた木製バットをテーピングで使用。しかし打球は飛びすぎ、今度は校舎3階の窓ガラスを破壊した。

◆リーグ新 近大では関西学生野球リーグで通算14本塁打。同校OBの二岡智宏(現巨人3軍監督)がマークしたリーグ通算本塁打記録を22年ぶりに更新した。

◆佐藤輝明(さとう・てるあき)1999年(平11)3月13日生まれ、兵庫県出身。仁川学院では通算20本塁打。近大では1年春からレギュラーで、2年秋と4年秋のリーグでMVPを受賞。リーグ新の公式戦通算14本塁打と猛打を振るった。20年ドラフト1位では4球団競合の末、阪神の指名を受け入団。契約金1億円+出来高5000万円、年俸1600万円(いずれも推定)。187センチ、94キロ。右投げ左打ち。