日刊スポーツの大型連載「監督」。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。第1弾は中日、阪神、楽天で優勝した星野仙一氏(享年70)。リーダーの資質が問われる時代に、闘将は何を思ったのか。ゆかりの人々を訪ねながら「燃える男」の人心掌握術、理想の指導者像に迫ります。

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中日、阪神、楽天を優勝に導き、名監督になった星野仙一氏は、野球界への“遺言”として、プロ・アマ一体化による底辺拡大を切望した。愛知・あま市にある七宝山・瑞円寺の永代供養塔には、闘将の直筆で「夢」と刻まれていた。

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星野が最後に公の場に姿を現したのは、17年の「野球殿堂入りを祝う会」だった。亡くなる約1カ月前の11月28日は東京、12月1日に大阪で開かれた壇上から夢を語っていた。

「全国の子供たちに、野球のできる環境をつくらないといけないという夢をもっています。巨人がV9した時代の球界に戻さないといけない。プロもアマもない。野球界を考えれば底辺も拡大します」

今思えば闘病生活の真っただ中で、持てる力を振り絞ったに違いない。まさかそれが野球界への最期のメッセージ、星野の“遺言”になるとは思わなかった。

星野が描いた“夢”の前に立った。愛知県西部に位置するあま市の七宝山・瑞円寺。文禄時代に建立された古刹(こさつ)にひっそり、星野の永代供養塔がまつられている。

初めてメディアが足を踏み入れることを許された石には、本人の字で「夢」と刻まれていた。父の佐々木友学(ゆうがく)から星野との関わりを受け継いだ住職、第五世友肇(ゆうちょう、50)と向き合った。

「負けるものかと苦難に屈しない精神、根性をみました。病気を治すことはできないが、ひたすら医療の円満を祈った。リーダーとして頂上に立つには、並大抵ではなかったでしょう。他がどうであろうと信念を貫く人だったと思います」

監督として成功した指導術は、戦後日本の景気を支えた高度成長期の歩みとダブった。厳しさを神髄とし、時代の変遷に合わせるかのように幅広くリーダーシップをとった。星野は独特の言い回しをした。

「年功序列がいかんとはいわん。この世は公平でありながら実は不平等なんだ。その不公平を公平にするのも自分の努力。よく鉄拳というけど、“痛み”とは体の痛みじゃない。殴って強くなるならボクサーを連れてきますよ」

明大で「オヤジ」と呼んだ島岡吉郎と出会い、巨人キラーだった男は鉄拳野球で激しく采配を振った。中日水原茂、巨人川上哲治らの名監督に学び、名だたる企業人に「人集め」「人作り」「人を動かす」法則をたたき込まれた。

39歳で中日監督に就いたのは昭和時代で、バブル期の波乱を経た平成時代の阪神優勝が56歳、楽天で指揮を執った時は還暦を超えていた。時代の流れに沿った“星野流”のチームマネジメントで、人材を操った。

激しさだけでなく、常に是々非々で、信賞必罰のタイミングを見極める。それができたのは、監督として熟し、人の心をつかみ、勝つための組織を束ねることができるリーダーだったからだ。

「これからはお世話になった野球界に恩返しをしないといけない」

しかし、力尽きた。世界はコロナ禍で先が見えない事態に陥った。リーダーとは…、が問われている。野球界は「プロ・アマ一体化で底辺拡大」の夢を紡ぐ契機にすべきだ。“星野の部屋”には一枚の色紙が残されていた。「ありがとう 野球よ 友よ 星野仙一」-。【編集委員・寺尾博和】(敬称略=おわり)

◆星野仙一(ほしの・せんいち)1947年(昭22)1月22日生まれ、岡山県出身。倉敷商から明大を経て、68年ドラフト1位で中日入団。エースとしてチームを支え、優勝した74年には沢村賞を獲得。82年引退。通算500試合、146勝121敗34セーブ、防御率3・60。古巣中日の監督を87~91年、96~01年と2期務め、88、99年と2度優勝。02年阪神監督に転じ、03年には史上初めてセの2球団を優勝へ導き同年勇退。08年北京オリンピック(五輪)で日本代表監督を務め4位。11年楽天監督となって13年日本一を果たし、14年退任した。17年野球殿堂入り。18年1月、70歳で死去した。

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