日刊スポーツは2021年も大型連載「監督」をお届けします。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。ソフトバンクの前身、南海ホークスで通算1773勝を挙げて黄金期を築いたプロ野球史上最多勝監督の鶴岡一人氏(享年83)。「グラウンドにゼニが落ちている」と名言を残した“親分”の指導者像に迫ります。

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鶴岡は「攻防一如」という言葉を好んだ。攻撃野球、守りの野球とチームの“型”が話題になるが、ペナントレースを勝ち抜くために攻守に均整のとれたスタイルを意識した。

1950年(昭25)の2リーグ分立後の南海は“100万ドルの内野陣”を形成。一塁飯田徳治、二塁鶴岡一人、三塁蔭山和夫、ショートが木塚忠助、その後岡本伊三美、森下正夫ら若手が加わった。

鶴岡に代わって二塁に入った岡本は、1949年に京都市立洛陽高(のちの洛陽工)からテスト入団した。後に阪神コーチ、近鉄監督、球団代表などを歴任している。

「今でも中モズ球場(南海の練習場)のグラウンドに真っ白なボールがパーッと散らばっていたことを覚えています。学校ではボールを縫いながら使っていたので打たせてほしいと思った。鶴岡さんはベンチ前にムシロを敷いてあぐらをかいて座ってました。テスト生に『今日あかんもんは国(親のもと)に帰れよ』と話したのです」

プロ野球界に参入の意向を示す企業が複数現れた時期だった。鶴岡は「サラリーマンは徐々に給料が上がるけど、この世界はドンと上がるぞ」と南海入りを後押しする。

「プロに入らないかと言われて、いくらぐらい給料くれはるんですか? と聞いたら3000円そこそこという。野球でメシを食えるなんて考えられなかった。ぼくは建築科でしたが高卒の給料が4500円、大卒が7000円だった。テスト生で南海に入ってファームの中モズでボール拾い、荷物持ちをしてるとき、鶴岡さんが『そのうち2軍というのができるからな。もうちょっと我慢しろ。それができたら朝から晩まで野球ができるぞ』とおっしゃった」

岡本がレギュラーの座をつかむのは3年目の52年で、鶴岡からの電話を中モズの合宿所で受けている。

「鶴岡さんは1、2軍の連携を大事にしていたと思います。『お前にセカンドをやるからやってみろ』といわれてね。2軍監督の岡村(俊昭)さんの推薦もあった。どの世界も上司による眼力は大きいということでしょうね」

翌53年の岡本はテスト上がりから打率3割1分8厘で首位打者、MVPに輝いた。二塁守備では鶴岡のノックでも鍛えられた。

「岡村さんのノックは受けやすい。でも親分のはポンポンときて、ポーンとはねるから難しかった。イレギュラーを小石のせいにすると『ちゃんと掃除できてたか?』、雨が目に入ると『先、先に準備しとかんかい』と叱られた。それが明日対戦するピッチャーがどういうタイプかを研究しろということにつながっていったんです」

選手の心をつかんで“育てながら勝つ”を実行した。あとは巨人のカベをいかに越えるかだったが53年の日本シリーズで3年連続敗退。鶴岡の悲願はまたしても打ち砕かれた。【編集委員・寺尾博和】

(敬称略、つづく)

◆鶴岡一人(つるおか・かずと)1916年(大5)7月27日生まれ、広島県出身。46~58年の登録名は山本一人。広島商では31年春の甲子園で優勝。法大を経て39年南海入団。同年10本塁打でタイトル獲得。応召後の46年に選手兼任監督として復帰し、52年に現役は引退。選手では実働8年、754試合、790安打、61本塁打、467打点、143盗塁、打率2割9分5厘。現役時代は173センチ、68キロ。右投げ右打ち。65年野球殿堂入り。監督としては65年限りでいったん退任したが、後任監督の蔭山和夫氏の急死に伴い復帰し68年まで務めた。監督通算1773勝はプロ野球最多。00年3月7日、心不全のため83歳で死去。

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