日刊スポーツは2021年も大型連載「監督」をお届けします。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。ソフトバンクの前身、南海ホークスで通算1773勝を挙げて黄金期を築いたプロ野球史上最多勝監督の鶴岡一人氏(享年83)。「グラウンドにゼニが落ちている」と名言を残した“親分”の指導者像に迫ります。

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南海の黄金期を支えた1人に、レジェンドの広瀬叔功(84)がいる。鶴岡はチームを引き締めるのに“叱られ役”を作った。それが「チョロ」というニックネームがついた広瀬だった。

「おっちょこちょいだからよく怒られた。わたしは野球界に怖い人がいなかったが、鶴岡さんだけは怖かった。厳しいオヤジと思っている。親分なんて、とんでもない。監督と呼んだ。こちらは『はい』としか言えなかったな」

広瀬は鶴岡の親友で広島商の同級生だった上原清治の勧めで、広島・大竹高から南海入りする。50メートル5秒5。陸上競技で早大、順大から勧誘されたほどの俊足だった。プロ2年目の呉キャンプで右中間に三塁打を打った。

「鶴岡さんに『なんで滑らんのじゃ。そんなやつはユニホームを脱いでとっとと帰れ!』と怒鳴りつけられた。今思えば怖いもの知らずだったが『はい。帰ります』といって宿舎に戻ってしまった」

広瀬にすれば悠々セーフだったので叱られる覚えはなかった。翌朝、ファーム監督の村上一治に、1軍宿舎で待つ鶴岡のもとに連れていかれた。

「鶴岡さんから『野球をやめて大学に入り直すというとるそうやないか。もう野球はできんぞ。考え直せ』と諭された。大監督から言葉を掛けられ、即座に『はい』と返事をして再び練習に出たんだ」

あとで鶴岡がベテラン勢が緩んでいたから、見せしめに厳しく当たったことを知った。身の程知らずだった自らを悔いた。「グラウンドにゼニが落ちてる」といった鶴岡の教えを結果で示した男。通算盗塁数596個は、阪急福本豊(1065盗塁)に次ぐ2位で、盗塁成功率8割2分9厘という驚異の数字を残している。

「わたしはいかにいいスタートを切るかよりも、いかに素早く帰塁するかに重きを置いた。ぎりぎりでベースに帰れる距離とタイミングを計れば、いいスタートが切れるという逆説的発想だ。それに福本はほとんどヘッドスライディングをしなかったが、わたしは頭から滑った。走っている勢いを生かしたかったからだ。ケガのリスクはあっても勝負した。だが共通しているのは勝つために走ったということだ。いくら盗塁してもチームが勝たないと意味がないじゃないか」

なにも足が速いだけではなかった。西鉄稲尾らのけん制を徹底的に研究し、捕手から送球を受ける二遊間の守り手の目線をすり抜けるスライディングに挑んできたザ・プロフェッショナルだ。

ある日、広瀬は大阪球場の風呂場で、巨人川上哲治が鶴岡に直立不動であいさつをしている光景を目の当たりにした。

「あの川上さんが鶴岡さんに深々と頭を下げてあいさつしてるのを見た。やっぱり鶴岡さんはすごい人なんだなと改めて思ったよ。よく『このばかたれが!』と怒られたな…」

御年84歳。鶴岡門下生のチョロは青春時代をなつかしんだ。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆鶴岡一人(つるおか・かずと)1916年(大5)7月27日生まれ、広島県出身。46~58年の登録名は山本一人。広島商では31年春の甲子園で優勝。法大を経て39年南海入団。同年10本塁打でタイトル獲得。応召後の46年に選手兼任監督として復帰し、52年に現役は引退。選手では実働8年、754試合、790安打、61本塁打、467打点、143盗塁、打率2割9分5厘。現役時代は173センチ、68キロ。右投げ右打ち。65年野球殿堂入り。監督としては65年限りでいったん退任したが、後任監督の蔭山和夫氏の急死に伴い復帰し68年まで務めた。監督通算1773勝はプロ野球最多。00年3月7日、心不全のため83歳で死去。

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