昭和の球界を彩った名助っ人が、また1人天国へと旅立った。広島で102本塁打を放った大砲、エイドリアン・ギャレット氏が4月22日、肺炎のため亡くなった。78歳だった。

ギャレット氏は43年1月3日、米国フロリダ州生まれ。サラソタ高を経て、ブレーブス-カブス-アスレチックス-カブス-エンゼルスと渡り歩いた。アスレチックス時代の71年には、ブルペンに入り投手の球を受けることもあった。これが後に役立つことになる。

広島には77年入団。75年の初優勝に貢献したゲイル・ホプキンス、リチャード・シェーンに代わる助っ人としての来日だった。来日1年目に35本塁打を放ち、山本浩二、衣笠祥雄、水谷実雄らと強力打線を形成。同年入団の強肩好打ジム・ライトルとともに、チームになくてはならない存在となった。またNPBで計12試合に捕手として出場と、器用さも披露した。

翌年78年4月には15本塁打と、当時の外国人月間最多本塁打の大爆発を見せる。地元広島市民球場で行われた同年の球宴第1戦では、パ・リーグの好投手たちになんと3本塁打を浴びせた。これは同年第3戦での掛布雅之(阪神)と並び、オールスターでの1試合最多本塁打として残っている。78年は最終的には40本塁打をマーク。山本44本と合わせ、同一球団同一年に複数の40本塁打以上打者が出たのは球界初の快挙だった。同年の広島はこの2人のほかに、ライトル33本、衣笠30本、水谷25本。セ・リーグ史上初めて20本塁打が5人という強力打線だった。

広島が初の日本一を飾る79年にも、27本塁打を放ち貢献を見せる。リーグ優勝を決める同年10月6日阪神戦では、9回にVを決定的にする2ランをバックスクリーンへたたき込み、ファンを熱狂させた。その裏を江夏豊が抑えての、V2達成だった。近鉄との日本シリーズ第3戦では途中出場し、7回に山口哲治から決勝タイムリー。75年には阪急に4敗2分けだった広島にとって、日本シリーズ初勝利をもたらした。ギャレット氏の一打で息を吹き返した広島は、球史に残る第7戦の「江夏の21球」で近鉄を下し、日本一を決めたのだった。これが日本最後の試合となり、引退した。

20年8月に日本プロ野球外国人OB選手会(JRFPA)主催のオンラインミーティングでは、同僚だった高橋慶彦氏とともに日本のファンに元気な姿を見せた。高橋氏によると、広島時代の愛称は「スモーキー」。桁外れのパワーとは裏腹に、煙のようにフワッとした雰囲気が愛されたのだという。カープ名物のキャンプでの2時間半にもわたるウオーミングアップにも、不平ひとつこぼさずについていった。「中日の小松(辰雄)の速球には参った。巨人の新浦(寿夫)のナックルも苦手だったけど、ホームランも打ったよ」と当時を懐かしんだ。

マイナーリーグのコーチを務めていた際には、後にヤクルトに在籍するウラディミール・バレンティン(現ソフトバンク)と出会った。「日本に行けば、君なら必ずスターになれる」とアドバイス。これを受けたバレンティンは13年に、60本塁打を放ち年間本塁打の日本記録を更新。ギャレット氏の目利きが証明された。この年8月、バレンティンは18本塁打。ギャレット氏が持っていた外国人月間記録を塗り替え、恩返しを果たしたのだった。

晩年は日本を懐かしみ「79年の優勝メンバーで集まりたいね。ぜひまた日本に行きたいよ」と訪日を熱望していた。切なる思いは残念ながら届かなかった。天国から古巣のV奪回を、きっと見守ってくれるに違いない。【記録担当 高野勲】