阪急タイガースは実現寸前だった-- 6月に入り、企業各社は株主総会ラッシュの時期を迎える。球界と経済界と言えば、2005年(平17)に村上ファンドによる衝撃的な阪神電鉄買収劇が起こった。時代の寵児と呼ばれた村上世彰氏の真の狙いは? 当時、大阪・和泉市長だったニッカンの元トラ番・井坂善行氏(66)は、その人脈取材で「阪急タイガースは誕生寸前だった」と回想する。

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いつのころからか、トラ番の株主総会取材は年間行事の1つになった。阪神ファンである株主がフロントの体質改善を訴え、監督の采配批判やコーチの指導力不足にまで言及する質問が飛び出すから、ニュースバリューとしては放っておけない行事となった。

しかし、球界と経済界といえば、05年に起こった村上ファンドによる阪神電鉄の株買い占め、阪神買収劇があまりにも衝撃的で、忘れられない出来事である。

当時、450円前後だった阪神の株価がジワジワと上がり始め、9月に村上ファンドが明らかにした大量株式保有報告書では電鉄の26・67%、百貨店の18・19%が買い占められ、電鉄の株価は1200円にまではね上がっていた。

当初、株価上昇について、阪神電鉄経営陣は「タイガースが優勝ペースなので買われているんだろう」という認識で、後にこの企業意識の希薄さが厳しい批判にさらされるが、現実問題として阪神グループは自力で乗り切れる状況ではなかった。乗っ取られることを覚悟しなければならないところまで、追い込まれていたのである。

当時、私は大阪・和泉市長に就任したばかりで、この騒動を取材する立場ではなかったし、直接の関わりがあるわけではなかった。

ただ、思わぬところで思わぬ人と会い、そこで思わぬ話を聞いた。

場所は大阪市内のホテル。大きな宴会場で行われていたのは、自民党の主要派閥である「宏池会」主催の政治資金パーティーだった。バッタリ出会ったのは、以前は阪急電鉄の秘書室にいた方で、その時は阪急の傍系会社の重役になっていた。余談だが、阪急と宏池会のつながりは古く、その関係は今でも続いている。

話題は当然、阪神買収劇のことだった。

「私たちの感覚ではあり得ないことですが、最終的には阪急と阪神が経営統合して、ファンドによる買収を阻止するしかないでしょう。そうなれば、阪神タイガースは阪急タイガースになりますね。阪急の社内は沸いていますよ」

阪急ブレーブスが好きで、野球が大好きだった阪急マンはそう言い残して去っていった。

06年春のことだったから、すでに水面下では阪急、阪神の経営統合の話が進んでいたのだろう。その後、村上ファンドは東京地検の強制捜査を受け、TOBによる株式売却に応じるしかなく、村上氏の阪神買収劇は幻に終わった。

では、阪神は阪急の完全子会社となり、タイガースは孫会社になったのに、なぜ「阪神タイガース」は残ったのだろう。プロ野球のオーナー会議は「経営母体が変わるのだから保証料、変更諸経費として30億円の拠出」を要求してきた。慌てたのが危機を乗り切ったと思っていた阪急、阪神サイドだった。

阪神ファンの心理と熱狂ぶりを熟知する阪急経営陣に対し、阪神サイドは「今後10年間は阪神タイガースを維持する」ことを提案し、受け入れられた。これを当時の宮崎オーナーが各球団のオーナーに説明し、理解を求め、保証料の拠出は回避できた。阪神の執念と阪急の危機回避の知恵がなければ、「阪急タイガース」の誕生は時間の問題だった、と言われている。「阪神タイガース」は「生き馬の目を抜く」経済界の激流を乗り越えてきた。

◆井坂善行(いさか・よしゆき)1955年(昭30)2月22日生まれ。PL学園(硬式野球部)、追手門学院大を経て、77年日刊スポーツ新聞社入社。阪急、阪神、近鉄、パ・リーグキャップ、遊軍記者を担当後、プロ野球デスク。阪神の日本一、近鉄の10・19、南海と阪急の身売りなど、在阪球団の激動期に第一線記者として活躍した。92年大阪・和泉市議選出馬のため退社。市議在任中は市議会議長、近畿市議会議長会会長などを歴任し、05年和泉市長に初当選、1期4年務めた。現在は不動産、経営コンサルタント業。PL学園硬式野球部OB会幹事。