プロ野球の中日、日本ハムで通算2204安打を放ち、日本ハムの監督も務めた大島康徳(おおしま・やすのり)氏が、6月30日午前、大腸がんのため都内の病院で死去した。70歳だった。通夜と葬儀・告別式は故人の遺志により近親者のみで行われた。2017年2月に自身のブログで大腸がんにかかったことを明らかにし、解説者などの仕事を続けながら闘病の様子を記していた。懸命にがんと闘ったが、力尽きた。

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大島氏は最期まで前向きに生きた。2017年2月に、ステージ4の大腸がんで手術を受けたことを公表。余命宣告を受けても、治療を続けながらテレビ解説など精力的に活動してきた。6月12日には、NHKでエンゼルス大谷の試合を担当。公式ブログも毎日のように更新した。

プロ野球界に、異色の経歴で飛び込んだ。大分・中津工に入学した時、キャッチボールも満足にできなかった。中学時代はバレーボール部の花形アタッカー。人数が足りないからと中津近郊相撲大会に誘われ、個人優勝をさらった経験もある。その足腰の強さに目をつけたのが当時の中津工野球部監督。実家や中学校に日参し、野球転向を口説かれた。

68年ドラフト3位で投手として中日に入団。野手に転向し、74、82年のリーグ優勝に貢献した。持ち前の長打力で76年に記録したシーズン代打本塁打7本は、今も日本記録。83年、山本浩二(広島)と並ぶ36本塁打で、本塁打王のタイトルを獲得した。

87年オフにトレードで日本ハムに移籍。プロ22年目の90年8月21日、当時の最年長39歳10カ月で通算2000安打を達成した。現役終盤になっても熱いプレースタイルは不変で、2000安打達成直前には前の打席で左ひじに死球を食らった投手から中前にサヨナラ打を放ち「ぶつけられたこともあるし、当然ピッチャー返しや」と言い放った。

94年のシーズンを最後に現役を引退し、99年オフ、日本ハム監督に就任。3シーズン指揮した。現役時代に2回、監督時代に3回の退場処分を食らったが、カラッとした性格で、尾を引くことはなかった。06年には、第1回WBCの日本代表打撃コーチとして優勝に貢献した。

今年6月24日夜には自宅に戻り、在宅医療に入ったことを報告。同27日には次男が一緒に寝てくれたと、うれしそうに書き込んだ。同28日に「ブログを書くことが、きつくなってきました」と記し、その後は家族に更新を託していた。

<大島さんブログ>

懸命な闘病の様子や、家族の心温まるふれあいで人気の大島氏の公式ブログ「この道」には、奈保美夫人が、春頃に話していた言葉として以下のように掲載した。

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この先の人生

何かやりたいことが

あるか?と

真剣に考えてみたけれど

特別なことは

何も浮かばない(笑)

高校を卒業して

プロ野球選手としての

人生をスタートし

この年になるまで

野球一筋、野球人として

生きることができた。

皆様のおかげです。

どうもありがとう。

そりゃ辛いことも

あったけど

それ以上に

この世界にいなければ

得ることが

できなかったであろう

ファンの方からの声援や

感動や喜びを

たくさんいただいた。

貴重な経験も

たくさんさせて頂いた。

よき先輩、よき後輩

よき仲間、よき家族に恵まれ

美味しいものをよく食べて

旨い酒をよく呑んで

大いに語らい

大いに笑い

楽しいこと

やりたいことは

片っ端からやってきた。

楽しかったなぁ…

これ以上何を望む?

もう何もないよ。

幸せな人生だった

命には

必ず終わりがある

自分にもいつか

その時は訪れる

その時が

俺の寿命

それが

俺に与えられた運命

病気に負けたんじゃない

俺の寿命を

生ききったということだ

その時が来るまで

俺はいつも通りに

普通に生きて

自分の人生を、命を

しっかり生ききるよ

大島康徳