梨田引退報道が「10・19」の導火線-。9月に入り両リーグのペナント戦線が激化してきた。優勝争いの劇的ドラマといえば、88年(昭63)の近鉄による10・19である。その1カ月前、ニッカンは西武に5ゲーム差をつけられた近鉄のベテラン・梨田昌孝(日刊スポーツ評論家)の現役引退をスクープした。近鉄は「終戦」と見込んでの報道だったが、それが10・19の梨田の劇的決勝打へとつながっていった。当時在阪パ・リーグ3球団のキャップで元大阪・和泉市長の井坂善行氏(66)が振り返る。

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プロ野球を取材する記者稼業も、9月になると、担当する球団によって取材内容が大きく違ってくる。下位に低迷するチームは、まずは監督交代があるのかどうかが一番のポイントで、その次には低迷の原因を分析し、コーチ陣のテコ入れなのか、トレードによる補強なのか。取材する範囲が大きく、広くなるから、まだまだ残暑が厳しくても、早々とストーブリーグに突入する羽目になる。

その中の1つが、ベテラン、スター選手の引退である。

88年9月の近鉄が、まさにそれだった。仰木監督1年目だから、監督交代はあり得ない。首脳陣の配置も特段、問題があるようには思えなかった。となると、ベテラン、スター選手の動向が焦点となる。当時、私は在阪パ・リーグ3球団のキャップを拝命していて、近鉄担当にはプロ17年目になるベテラン・梨田の引退についての徹底取材を指示していた。

ここまで読んでいただいて、プロ野球に詳しい読者の方なら、もうお分かりだろう。88年と言えば、そう、近鉄があの「10・19」を演じた球史に残るシーズンである。

しかし、時計の針を戻せば、9月11日、近鉄はロッテに敗れ、首位・西武とは5ゲーム差までに広がった。残り28試合で5差。担当する記者の分析では、近鉄は逆転Vの可能性は残しているものの、事実上は「終戦」を迎えたと受け止めて取材するものだ。

翌日12日は東京への移動日。仰木監督は担当記者と新大阪駅の喫茶店で取材に応じたが、私は先にプラットホームに行き、梨田さんが来るのを待った。というのは、担当記者と私の取材を総合した結果、梨田の今季限りでの引退は間違いない、という結論に至った。だから、私は本人に直撃するためにプラットホームへと向かったのだ。

「まだ優勝の可能性のある大事な時なんだから、個人的なことなんて記事にしないでよ」。

私の直撃取材に、梨田さんは困惑した表情を浮かべて、そう答えた。これ以上、粘っても、梨田さんは自分の口から「引退する」などと言うような人ではない。すでに周辺取材で確証を得ていたので、9月13日付のニッカンの紙面は「梨田引退」と報じた。

ところが、ここから近鉄の奇跡的な逆襲が始まった。途中、周辺取材に協力してくれた人からは「梨田引退の報道が近鉄に火をつけた。みんな、梨田の引退に花を添えると必死になっている」と明かしてくれた。

そして迎えた10・19、梨田さんはロッテとのダブルヘッダーの1試合目、同点引き分けでも優勝が消滅する9回の2死2塁で代打に起用され、しぶとく中前に決勝打を放った。梨田さんの現役最後のヒットが、近鉄の逆転優勝への道を2試合目までつないだのである。

1カ月前に優勝は無理と判断し、ベテラン・梨田の引退を報じたが、近鉄は10・19の劇的ドラマを演じ、その主役を梨田さんが務めた。スクープとなった「梨田引退」だったが、なんとも目まぐるしい88年の秋だった。

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梨田さんと私とは、梨田さんが年齢が1学年上になるが、いわゆる同世代として現役時代はもちろんのこと、ニッカンとNHKの評論家時代、そして近鉄、日本ハム、楽天の監督時代も親しく付き合っていただいた。

私が大阪・和泉市の市議時代、同じ市議の中に大の近鉄ファンがいて、2月のキャンプには梨田監督の「陣中見舞い」と称して、何度か2人で日向キャンプを訪れた。陣中見舞いというのは、行く方が見舞品を持って訪れるものだが、梨田監督はいつも時間を空けてくれ、毎度毎度、日向のおいしい地鶏やさかなをごちそうしてくれた。お互い、ヘビースモーカーで、食事をしながら話していると、すぐに灰皿がいっぱいになるほどだった。

そんな梨田さんも禁煙に成功し、楽天監督時代に訪れた仙台では、すこぶる体調もよさそうだった。それだけに、昨年3月の梨田さんの新型コロナウイルス感染には驚いた。しかも、人工呼吸器を必要とする重症で、50日間の入院、体重は15キロも減った、という。

退院後は懸命のリハビリに励み、当時の安倍首相とコロナ対応についてネット対談したり、著名人で構成される政府のコロナ対応サポーターを務めている。梨田さんと連絡を密にする寺尾編集委員に聞くと、「まだまだ現場復帰の意欲を持っています」とのこと。もちろん、私もそう願っている1人である。

◆井坂善行(いさか・よしゆき)1955年(昭30)2月22日生まれ。PL学園(硬式野球部)、追手門学院大を経て、77年日刊スポーツ新聞社入社。阪急、阪神、近鉄、パ・リーグキャップ、遊軍記者を担当後、プロ野球デスク。阪神の日本一、近鉄の10・19、南海と阪急の身売りなど、在阪球団の激動期に第一線記者として活躍した。92年大阪・和泉市議選出馬のため退社。市議在任中は市議会議長、近畿市議会議長会会長などを歴任し、05年和泉市長に初当選、1期4年務めた。現在は不動産、経営コンサルタント業。PL学園硬式野球部OB会幹事。