昨年のお盆がすぎたころだった。オリックス2軍監督から1軍監督代行に昇格するという報道が流れた際、中嶋聡監督に祝福の電話をした。自分のことのように舞い上がっていたが、会話のトーンが一変した。「気が重いよ。そんな簡単な話じゃないんだ!」。本当に困惑していた様子で安易にお祝いしたことで叱られたことを覚えている。

1986年(昭61)秋田・鷹巣農林からドラフト3位で阪急に入団。同じ秋田出身の山田久志(日刊スポーツ評論家)をはじめ、星野伸之、佐藤義則、山沖之彦、長谷川滋利、西武では松坂大輔、横浜では三浦大輔、日本ハムではダルビッシュと球界を代表する投手の球を長年受けてきた職人だ。

控えめで寡黙、自称「人見知り」。現役時代から球場でほとんど口を開かなかい人だったが、私が秋田出身という理由だけで遠征中、たびたび会食に誘ってくれた。西武担当時代に松坂の状態、配球の組み立て、野球そのものをよく取材した。「あの真っすぐを生かすには緩いカーブを多く使わないと」。グラスを持つとき、数々の剛球を受けてきた左人さし指が太く腫れ上がっているのが見えた。

いつも優しく無口な先輩に一度きつく怒られたことがあった。阪急時代の同僚、左腕星野の80キロ台のスローカーブを素手の右手で捕球したエピソードを書いたことがあった。プロ野球珍プレーでもよく流れた映像だった。「星野さんに失礼だろ。外角に抜けて左手が届かなかっただけだ」。星野、松坂の直球を一級品に仕立てたのは捕手中嶋のカーブの使い方にあると、プロ野球担当時代に書いたことは今でも間違っていなかったと思う。

高卒からプロ入団後は名将上田利治監督、仰木彬監督のもとでレギュラー捕手を勝ち取り、98年FAで西武移籍後は、常勝軍団の投手陣になじもうと主力の潮崎哲也、デニー友利、西崎幸広、石井貴、西口文也らと積極的にコミュニケーションを取った。日本ハムでは栗山英樹監督の右腕として戦術、組織的マネジメントを学んだ。もの静かで控えめだがとにかく人の話をよく聞く人だ。監督として成功するのは必然だったと思う。【01~02年西武担当=山内崇章】