広島の監督として「赤ヘル軍団」の黄金期を築いた古葉竹識(こば・たけし)さんが、12日に心不全で亡くなっていたことが16日、分かった。長男千雄さんが球団を通じて発表した。85歳だった。

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古葉さんが指揮を執った88年と89年の横浜大洋の番記者だった。折あしくチームの低迷期だったが、人の個性とか徳は、得てしてそんな苦境のときに表れるものかもしれない。

89年シーズン。開幕からチームは不振をかこつ。5月末から6月上旬にかけて10連敗を喫した時期だった。試合後に緊急ミーティングが招集された。球団フロントが「いったい何をやっているんだ!」と一喝。次の瞬間、1人のコーチが「私の責任です。(コーチを)辞めます!」と言い放った。そのとき古葉さんは「よさないか!」と、その場をとりなしたが、連敗を機に噴き出したフロントと現場のあつれきは、後々まで尾を引き、そのシーズンで辞任に追い込まれた。

私はこの一件を、日刊スポーツの1面で書いた。「古葉大洋に内紛勃発!」「オフの進退にも影響か?」という見出しがついた。秘中の秘であるミーティング内容を暴露したのだから、古葉さんの怒りは目に見えていた。翌日の早朝、「弁明」のため都内の自宅のチャイムを鳴らした。家人は「集金は終わったでしょ!」と取り次いでくれない。それでも外出のタイミングに遭遇。「監督、あのぉ…」と切り出した。

古葉さんは、いつもの柔和な表情を崩すことなく「ああいうことも、書かんといけんのじゃろ?」と、広島弁で言った。記事を否定するのではなく、記者としての仕事に理解を示してくれていた。怒った顔は見たことがない。心の、幅と奥行きを感じさせる人だった。

本拠での練習中、スタジアムにはBGMで必ず球団応援歌「古葉、大洋よ覇者となれ」が大音響で流れる。この歌の中にある「男は耐えて、勝つことを ゲームの度に示すのさ」というフレーズは、古葉さんの座右の銘「耐えて勝つ」に由来する。チームの調子が上向かないとき、この曲を聴く打撃ケージ裏の古葉さんはちょっぴり照れくさそうだった。

常に、感情を制御していた。バットケースから半身で戦況を見つめるしぐさは、本音をさらすまいとするようだし、試合後の会見拒否も記憶にない。すべての所作や振る舞いが「勝つ」ために「耐えうる」環境づくりにあったような、そんな揮毫(きごう)を地でいくような人だった。【玉置肇=88、89年横浜大洋担当】