太平洋戦争のビルマ戦線から帰還した三原は、読売新聞社運動部に所属し、取材記者としてプロ野球にかかわった。1947年(昭22)6月、編集局長の安田庄司から巨人の監督就任を打診され、それを受諾する。監督の中島治康に代わり、出向社員としてその座に就いた。

「巨人の監督をやることが、戦後のわたしのプロ野球界への再出発になった。監督は企業でいう社長である。自分の思い通りにやっていかないと悔いが残る。そのための生殺与奪(せいさつよだつ)の権限をもっている。たとえ年功序列、実績のある管理職クラスの人間であっても、組織のプラスにならないものは、いっさい使わなくてもいい」

1年目は5位、48年が2位に終わると、巨人は南海ホークス(現ソフトバンク)からエース別所毅彦を引き抜いた。統一契約書もないフリーも同然の時代だったが、南海との交渉がこじれたことで、翌49年に巨人入りが決まった。

これには南海ホークス監督だった鶴岡一人もショックを受けたようだ。1リーグ8球団制の時代で、盟主巨人を倒すことに力を注いでいた。48年は26勝の別所を筆頭に、柚木進、中谷信夫、中原宏ら好投手を擁した優勝だったから、巨人にしてやられたイメージが強い。

三原監督3年目の49年は、1リーグの最終年だった。出場停止から解放された別所は勝ちまくって、巨人は戦後初優勝を遂げる。今にして思えば、別所引き抜きは、三原の“人集め”の原点だったのかもしれない。ただ、南海との遺恨は残された。

49年4月14日の南海との3連戦(後楽園)の第3戦に「ぽかり事件」は起きた。南海の攻撃で9回無死一塁から代打岡村俊昭のゴロが一塁に転がった。打球処理した川上哲治は併殺を狙い、遊撃手の白石敏男に送球したが、一塁走者の筒井敬三とからまった。

三原は主審の津田四郎に抗議したが、白石と口論する筒井に手を出して無期限の出場停止処分を科される。当時の新聞には「監督でありながら筒井君を殴ったのは、なんとしても悪いと思う。どんな処罰にあってもかまわない」と謝罪コメントが掲載されている。代理で指揮を執ったのは中島治康。3カ月後の7月21日に出場停止が解けると、チームは勝ち星を重ねた。

「覇権を握るのは難しい。覇権を続けるのはさらに難しい。しかし、1度失った覇権を奪回するのは、それまたさらに難しい」

複雑な内部事情も絡んで、翌50年は抑留生活を送っていたシベリアから帰国した水原茂が監督に就任。両雄並び立たずというべきか、三原は閑職に追いやられる。2リーグ15球団に拡張する球界再編も起きた。巨人に別れを告げた三原は、新天地に向かって関門海峡を渡るのだった。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

 

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