智将・三原魔術がよみがえる! 日刊スポーツの大型連載「監督」の第6弾は巨人、西鉄、大洋、近鉄、ヤクルトを率いて通算監督勝利数2位の三原脩氏を続載する。

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三原は太平洋戦争中の戦地で囲碁に興じ、帰還後は日本棋院から初段の免許を受けた。強い人を相手に先筋を読んだ対局は、グラウンドの戦いにも通じるという考えだった。

実はマスコミが命名した“三原魔術”という言葉を本人は好まなかった。現実的な合理主義者であったとしても、勝つために陽動作戦を用いたのは、疑いようのない事実だった。

「監督には独創的な考え、指揮者の勘が必要だ。それが的中したときに、選手、チームは加速的な盛り上がりをみせ、破天荒な勝率を上げることができる」

8シーズン指揮を執った大洋を去る三原は、後継監督に名投手の別所毅彦を考えていたが、球団が招へいしたのは別当薫だった。1968年(昭43)、元監督の近鉄球団社長・芥田武夫からオファーを受けた三原は、再びパ・リーグで監督の座についた。

巨人、西鉄、大洋を経て、4球団目の指揮を託された近鉄も長期低迷していた。阪急ブレーブスの全盛期で、三原近鉄は4位、2位、3位だったが優勝争いするチームに仕立てた。

投の鈴木啓示、打の土井正博以外に、目立った選手は見当たらない。4年連続の最下位チームで繰り出した“仕掛け”が、永淵洋三の「投打二刀流」だ。エンゼルス大谷翔平の先駆けは、三原魔術にあった。

永淵は佐賀高から東芝を経て投手で近鉄入り。酒豪で知られ、飲み屋のツケを支払うためにプロ入りした逸話もあるほどで、水島新司の人気漫画「あぶさん」の主人公・景浦安武のモデルにもなった。

三原は孫子の兵法にある「兵はいつわりなり」という思想をよく口にした。兵力(選手)を見極め、事前に戦略を立てる上で、「だまし」「オトリ」は実力以上の成果を生むという。

永淵を外野で先発させ、強力な左打者が登場するとリリーフに回し、再び右翼に戻す。投手成績は0勝1敗だが、先発、リリーフ、ワンポイントでフル回転。出場109試合で打率2割7分4厘。2年目は3割3分3厘、東映張本勲と並んで首位打者に輝いた。

また、捕手に重点を置くチーム作りは、どの球団に行っても同じだった。近鉄で若手の鈴木を育てるために岩木康郎をあてた。西鉄ではベテラン日比野武、大洋土井淳、ヤクルト監督に就くとスローイングが目立った大矢明彦を起用した。

ヤクルトではオーナーの松園尚巳に説得され、71年から3シーズン采配を振った。日本ハムの球団社長に就任したのも、オーナーの大社義規から声を掛けられたからだ。

巨人、西鉄、大洋、近鉄、ヤクルトの5球団で26年間監督を歴任。三原コミッショナー待望論が起きたのも、ビジネスにこだわる前に大切な野球界への“情熱”にあふれていたからだろう。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

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