日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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プロ野球の記者にとって、球団の監督人事は最大級の懸案事項といえる。1984年(昭59)に突然辞任した安藤統男(当時、統夫)の後任をターゲットにした取材合戦は、夜討ち朝駆けの熾烈(しれつ)を極めた。

日刊スポーツのトラ番キャップで、奈良市内で暮らした西本忠成は、球団首脳のほとんどが兵庫県内に居を構えていたことで、たびたび大阪市内のホテルに泊まり込んだ。

「球団社長の小津(正次郎)さんは安藤監督がやめるとなって慌てた。それで球団代表の岡崎(義人)さんと、後任に村山(実)さんにいこうとした。田中(隆造)オーナーと代行の久万(俊二郎)さんは西本幸雄さんに監督をしてもらいたかった。でも、ハナから阪神に来てくれると思っていなかったはずだ」

本紙の阪神担当は、西本に、川上達郎、浅岡真一、横田耕治、井坂善行の5人。西本は「他社の記者と飲みにいって口を滑らすと困るから、絶対に部下の記者にはネタを流さなかった」と単独で動いた。

この時点で、岡山市内で行われた監督要請に吉田義男が受諾の意思を示したことは表面化していない。その証拠にマスコミ報道は依然として「村山か? 吉田か?」のバトル構図に変わりはなかった。

10月22日、月曜日。西本が朝駆けしたのは「だれも記者はいなかった」という吉田邸だ。その日は、最終7戦目までもつれた広島-阪急の日本シリーズが広島市民球場で午後1時にプレーボールの予定だった。

早朝から張り込んだ西本は、関西テレビの仕事に出掛ける吉田を玄関先で待った。「ヒントというより決定打だった」と西本のアンテナにピピピッ! ときたのは、村山の名前が1面だったスポーツ各紙を見せられた時の吉田の一言だ。

「こんなん、先走っていいんですかね…」

西本はストーブリーグが続いて伸びたヒゲをぴくつかせ、その反応に直感的に確信を得たという。取材のプロセスで「阪神が村山さんと交渉した形跡がまったくなかった」という感触もあった。

その日の日本シリーズは広島が7-2で阪急を下し、4年ぶり3度目の日本一を達成。ナインの手で8度宙を舞った古葉竹識が男泣きしたが、翌日は衝撃のスクープが1面を飾った。

10月23日、火曜日。日刊スポーツは「阪神 吉田監督」を特報した。社長小津の退任もすっぱ抜いた。オーナーは田中から久万に交代してフロントも大刷新。8年ぶりに監督復帰する吉田は、古巣を「力を出し切れば勝てる」と思いながらながめていたという。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

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