日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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掛布雅之がYouTubeチャンネルを開設したのだという。1985年(昭60)の4番で優勝の立役者。無名だった男は、テスト生も同然で阪神入りし、スターダムをのし上がった。

吉田がなつかしんだのは華やかな時代の掛布ではない。過酷な練習で三塁の定位置をつかみ、レギュラーになって、球界を代表するプレーヤーにまでなったプロセスを間近で見てきた。

金田正泰から監督が吉田に代わった74年オフ、掛布の父親泰治から「どんなことにも耐える子供に育ててあります。どうかレギュラーにしてください」とお願いされたという。

掛布と佐野仙好を三塁のポジションで激しく競わせた。佐野は73年ドラフト1位でプロ入りしたエリートだから期待度は高かったはずだ。しかし監督が見初めたのはドラフト6位の掛布のほうだ。

「よぉ練習しました。安芸キャンプの練習後、2人がファウルテリトリーで1時間以上もノックを受けた。少し動きが粗っぽかったが、音を上げることはなかったし、耐久力がありました」

ノッカーはコーチの藤村隆男、安藤統男、梅本正之の3人。75年の三塁のスタメン出場は、掛布が75試合、佐野が52試合。吉田は投手の左右によってライバル同士を併用した。

しかし、その年の夏過ぎからピッチャーに関係なく掛布を起用し続ける。コーチだった一枝からの進言も手伝った。76年は掛布が三塁で116試合に先発で出場し、ついにレギュラーの座をつかんだ。

「掛布ほどバットを振って、ノックを受けた選手は少ない。当初は膝元から落ちる球にもろかったが、オールスターを境に振らなくなった。打てると確信しました。佐野がダメということではない。掛布は猛練習に耐える体力があって、気力が伴って、そこに技術が備わったんです」

吉田は掛布の父親と会った日を引き合いに「だいたい親というのは子供をほめるんですが、そうじゃない育てられ方をしてきた。お父さんの言われる通りの掛布でした」と語った。

85年の春季キャンプでも内外野、捕手が4班に分かれての厳しい全員ノックがメニューに加わった。同じ高知県内がキャンプ地だった阪急ブレーブスの練習を参考にしたものだった。

「ノックは選手とのキャッチボールです」

バース、掛布、岡田のバックスクリーン3連発は伝説になっている。それぞれに輝いた姿ばかりがクローズアップされるが、その陰には汗と泥にまみれたドラマがあった。 【寺尾博和編集委員】

(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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