日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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1985年(昭60)はチーム本塁打219本が示したように、打力にモノをいわせて頂点に立った。打率2割8分5厘、731得点などすべての打撃部門で他球団を圧倒した。

一方でチーム防御率4・16はリーグ4位。もともと投手力が弱点とされた。抜きんでた数字を残した存在は見当たらない。しかしポイントのゲームを抑え、個々が持ち場で仕事をした。

シーズン最初につまずいたのは、ゴールデンウイークに差し掛かったタイミングだった。4月29日の大洋戦(横浜)から6連敗し、4位まで後退。その連敗を止めたのが、エース格の池田親興だった。

5月6日の中日戦(甲子園)で池田が完投。8日の広島戦(同)はリッチ・ゲイル、山本和行で逃げ切り、9日は伊藤文隆が投げきって3連勝し、一気に首位を奪回した。

投手陣は、全体的にちょうど脂が乗った年齢だった。池田26歳、中田良弘26歳、伊藤31歳、仲田幸司21歳、リリーフの福間納34歳、工藤一彦29歳、中西清起23歳らだ。

しかも、ほとんどのピッチャーがドラフト上位で指名された選手で、そのまま1軍戦力になって働いた。勝ち頭は13勝8敗、4完投2完封をマークしたゲイル、31歳だ。

吉田は80年のワールドシリーズで、先発したロイヤルズのゲイルを見た。84年に外国人獲得のため渉外担当の藤江清志、通訳本多達也とともに渡米したのは、ヘッドコーチの土井淳だった。

「レッドソックスでプレーしていたゲイルは、ウインターリーグのプエルトリコで投げていました。ボールは速くないけど、大きく縦に曲がるカーブは日本向きだと思った。監督に国際電話をすると『すぐに契約してくれ』と言われたので獲得に踏み切った」

投のゲイル、打のバースといった両外国人の当たりシーズンでもあった。吉田が「外国人が日本で成功するポイントの1つは通訳」と語ったが、それは昔も現在も変わらないフロントの役目といえる。

開幕から吉田は監督就任の際、阪神電鉄サイドの交渉役だった西梅田開発室長・三好一彦と頻繁に密会した。試合のない日、移動日などを利用し、チーム強化に関する話し合いを続ける。当時の克明なメモが残されていた。【寺尾博和編集委員】

(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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