阪神糸井嘉男外野手(41)を陰で支え続けた後輩がいる。近大硬式野球部の2学年下で、オリックス時代から先輩をサポートしてきた阪上(さかじょう)忠士マネジャー(39)が21日、現役引退セレモニーを終えた「超人」への感謝を言葉に変えた。【取材・構成=佐井陽介】

   ◇   ◇   ◇

阪上氏は9月上旬、糸井から現役引退を告げられた。「もっと他にもサポートできたんじゃないか…」。自分を責めかけた後輩を救ったのは、どこまでも澄み切った先輩の笑顔だった。

「やり切ったわ。ありがとうな」

二人三脚の日々が脳裏によみがえった。涙をこらえきれなくなった。

まだ近大1年生だった20年前、初めて「糸井嘉男」を体感した。

当時、近大硬式野球部ではチームが全国大会の遠征に出た時、残留組はサッカー大会に汗を流す伝統があった。練習場の地域名にちなんだ「生駒カップ」。阪上氏はこの大会で2学年上だった糸井のプレーに心底驚かされたのだという。

「1歩の幅もジャンプの高さも桁違い。1人だけ体の大きさが3倍ぐらいに見えて、なんやこの先輩は、と…。でも、当時と今では糸井さんの印象は少し違います。身体能力がすごいのはもちろんですけど、陰でどれだけ努力してきたかも見てきたつもりなので」

糸井は03年秋、自由枠で日本ハムに投手入団。06年に野手転向後、一気に才能を開花させた。一方の阪上氏は近大3年時から硬式野球部の主務に転向。大学卒業後は大阪ホーマーやアシックスなどスポーツメーカーで活躍していた。そんな2人の人生が再び交錯し始めたのは13年、糸井が日本ハムからオリックスに移籍した頃だ。

阪上氏は当時、アシックス社員としてオリックスを担当していた。縁あって先輩との再会を果たすと、14年6月にはアスリートのマネジメントなどを手がけるB-creative agency(現MTX Agency)に転職。今度は全面的に糸井のサポートに回り、以降8年間、先輩の「隠れた努力」に触れ続けることとなった。

シーズン終了後、10日間も経たないうちからバットを握り始める。「後輩の邪魔はしたくないから」と、学生の練習が終わった夜9時ごろから近大練習場で打ち込む。

「12月なんかは白い息を吐きながらティー打撃のボールを上げて。黙々とスイングする姿から殺気を感じることすらありました」

並外れた努力量は阪神移籍後の17年以降、30代後半に入ってもブレなかった。

「日本ハム時代にダルビッシュ投手と接して考え方が変わったと言っていましたが、糸井さんはとにかく野球に対してストイック。サプリにしろトレーニングにしろ治療にしろ、周りにどれだけ勧められても、必ず自分で調べて納得してから追求していました」

ある日は昼に1度ジムでウエートトレを終えているのに、「まだ鍛えられていない箇所がある」と夜11時に再びジムへ車を走らせたことも。「どこまでストイックなのだろうと、何度驚かされたことか」。後輩は笑顔でそう振り返る。

現役終盤はケガとの苦闘も続いた。右膝の激痛に苦悩した20年は患部に水がたまる度、水抜きができる病院を探し回った。膝の専門家を訪ね歩きながら、先輩の結果に一喜一憂し続けた日々が今は懐かしい。

「今年は2軍再調整に入った頃、首脳陣の方に『僕を使っていていいんですか? 若い子を試合に出してあげてください』と気を使っていたとも聞きました。最後までトップアスリートのあるべき姿を間近で見せてもらえて、先輩には本当に感謝しかありません」

引退試合。阪上氏は甲子園の観客席から最後の勇姿を静かに見守った。

「よく身体能力がエグいと言われてきましたけど、その身体能力にあれだけの努力を積み重ねられたから、先輩は『超人』になれたのだと思います」

先輩が打席に向かう。三遊間を破る。笑顔に拍手が注がれる。

「ほんま、すごいわ…」 後輩はもう、あふれ出る涙を我慢しようとも思わなかった。