長らく南海(現ソフトバンク)の主砲として活躍し、プロ野球史上3位の通算567本塁打を放った門田博光(かどた・ひろみつ)氏が亡くなったことが24日、分かった。74歳だった。

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まだ関西にプロ野球球団が4チームあった時代。南海ホークスと阪急ブレーブスの試合を取材するのが楽しみで仕方なかった。ガラガラの大阪球場だったけれど、昭和の名勝負は緊迫感にあふれていた。マウンドに立つ阪急のエース、山田久志。打席で構える門田博光…。ある試合での最終回、南海の攻撃。門田が打てば逆転サヨナラの状況で、門田はセオリーを無視した行動に出た。

満塁でカウントは3-0。押し出しなら同点になるのに、4球目、バットを思い切り振ったのだ。結果は打ち損じての内野フライ。なぜ? どうして? 試合後、門田のもとに急いだ。そして聞いた。「ボール3から、スイングする場面でしたか?」。すると門田はどう答えたのか。

「お前、投げているのが誰か分かってるんか。あそこでボールを投げる投手やない。天下の山田やぞ。だからオレが打つチャンスはあの1球、絶対にストライクが来る球やった」。相手をリスペクトし、その相手に打ち勝つために、ひと振りに懸けた門田らしいエピソードだった。

昭和ロマンを体と心にまとって、プロ人生を生き抜いた。決して恵まれた体格ではなかったが、野球のロマンはホームラン。それしか思わなかった。「ヒットだけでよかったら、オレは4割を打つ自信がある」とまで言い放ったが、打率4割より本塁打。日本歴代3位の通算ホームラン数は門田の生きざま、そのものだった。

南海ホークスでの晩年、引退について、こう語っていた。「引退を決める時? それはな、いった(ホームランになる)と思った打球がフェンスの前で失速した時。その時はバットを置く」。ロマンの男は純粋だった。

あれだけの記録と記憶を残していながら、引退後は不遇だった。私生活では信じていた周囲の人間に裏切られ、体にも変調が起き、糖尿病に苦しんだ。自宅が奈良にあった時代。「家に来てくれ」と招かれた時、涙をためながら「夜中に喉がかわいて、冷蔵庫の中の水分を…と、酒をがぶ飲みすることもあるんや」とつぶやいた。

それでも指導者になってみたいという願いは捨てていなかった。当時、阪神で人気沸騰していた新庄の名を挙げ「オレがコーチならあいつを山に連れていき、木の枝めがけて、ひたすらバットを振らす。そういう野球の原点を教えてみたい…」と照れながら話していた。

あれほどの数字を残しながら監督になれなかった男。球界の七不思議とされたが、独特過ぎる個性が邪魔したのか。南海ホークスが消えて久しい。そして今、門田博光が逝った。令和の時代に悲しい知らせに、僕は体を震わせている。(日刊スポーツ元南海担当・内匠宏幸)

【写真特集】門田博光さん死去、74歳 歴代3位567本塁打 南海、オリックス、ダイエーで活躍