DeNA、中日で活躍した谷繁元信氏(53=日刊スポーツ評論家)の野球殿堂入りが18日、決まった。大洋、横浜(現DeNA)でバッテリーを組み、98年に日本一に輝いた佐々木主浩氏(55=日刊スポーツ評論家)が祝福の声を寄せた。

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シゲとは横須賀の長浦にあった寮の部屋が目の前で、大洋に入団してすぐに仲良くなった。よく食事に行った。高校から入団した選手だったけど、当時からハンドワークやミットの出し方が抜群にうまかった。むしろ、うま過ぎたのかもしれない。

抑えに転向したばかりのころ、秋元とバッテリーを組むことを希望した。谷繁はミットでの捕球がうまいばかりに、体を持って行って止めるということが少なかったと思う。そうなると投手は安心して、ワンバウンドするフォークを思い切って投げられない。だから秋元とセットで登場することが増えた。

近藤(昭仁)さんが監督になったころから、一生懸命努力して、練習する姿をよく見るようになった。正捕手になるんだと、がむしゃらだった。いいコーチにも恵まれた。佐野(元国)さんに基本を仕込まれ、大矢(明彦)さんに応用を教えられた。成功するプロ野球選手は皆、いいコーチと出会っている。

江の川高校時代から強打者で知られていただけに、入団当初は打撃に重きを置いているようにも感じた。だが、やんちゃなシゲが成長するにつれ、投手陣全員に正捕手として認められるようになった。練習態度、投手に対する言動。大矢さんが監督になったあたりでは、捕手に比重を置いて、明らかに変わっていた。

再びバッテリーを組むようになってからは、サインにほとんど首を振ったことがない。私がマウンドに上がって「頼むぞ」と言い「任せて下さい」と返ってくるだけ。言葉はいらなかった。リードの勘が悪い時に「頼みます」と言われたけど、そんなことは数えるほどしかなかった。いつも全幅の信頼を置いていた。

98年、シゲと一緒に日本一となったことは忘れられない。弱い大洋の時から一緒にやってきて、本当に優勝できると思っていなかった。入った頃は弱かったけど、冗談じゃなくクリスマスまで練習をしていた。今の時代では考えられないが、秋のキャンプでは「秋は春まで時間があるからけがしてもいい」と言われていた。100メートル走×100本とか、苦しい練習を一緒に乗り越えて来た。だからこそ、優勝の味は格別だった。

シゲはプロ最多出場記録をつくっただけあって、体が強い。けがが少ない。でも本当は違う。痛い、かゆいを表に出さないだけ。プロ野球選手で痛いところがない選手なんていない。正直「やった」じゃなく「やらされた」練習だったけど、自分もシゲも、若い頃のつらい練習を乗り越えたから殿堂入りできたと思う。

FAで中日に移籍したころは、選手として完成されていた。ベイスターズが弱くなって、中日が強くなったのはシゲのおかげだ。存在の大きさが、チーム成績に直結していた。長い期間、大きなけがもなく、よく頑張ったと思う。バッテリーを組んでいた仲間が殿堂入りして、本当にうれしい。おめでとう。(日刊スポーツ評論家)