元巨人でヤンキースGM付特別アドバイザーの松井秀喜氏(51)が、6月に89歳で死去した故長嶋茂雄名誉監督に「お別れの言葉」を述べた。
祭壇の前に立ち、追悼の言葉を記した紙をスーツの内ポケットから取り出すと、にこやかな表情でマイクの前に立った。
以下メッセージ全文。
「監督。監督へのお別れの言葉2回目です。同じ方にお別れの言葉を2回お伝えするのは、私の人生でこれが最初で最後だと思います。それも長嶋茂雄だからですね。今日は監督が最も愛した場所、東京ドームです。隣にあった後楽園球場、この東京ドームには監督のいろいろな感情が今でも刻み込まれており、ここにいるとそれを感じ、また監督に会えたような気がしてうれしいです。監督が遠い空へ旅立たれ、半年が過ぎようとしています。その日以来、私は監督とともに過ごした時間の記憶をたどる日々を過ごしてまいりました。いろいろな場面での監督の表情、まなざし、言葉を思い出し、監督にもう会うこともお話しすることもかなわない現実を受け入れ、自分自身の気持ちを整理するための時間でした。そして本日、東京ドームでお別れの会を迎えています。監督は1992年の秋、ジャイアンツ復帰されました。当時の背番号は33番でしたね。その直後、本日と同じ11月21日に行われましたドラフト会議で、私をジャイアンツに導いてくださいました。あの日からちょうど33年後の今日、監督が私の守備位置として指定し、私がいつも守っていましたこの東京ドームのセンターで、今、監督にお別れの言葉をお伝えしています。そんないくつかの偶然さえも、自然の運命なのではないかと感じるほど、監督とのご縁はかけがえのないものであり、私の野球人生に多大な影響を与えてくださいました。野球選手としての正しい道を示し、その道を明るく照らし、力強く導いてくださいました。監督の立場であるにも関わらず、試合前、必ず私のスイングをチェックするため時間を割いてくださいました。この東京ドームの中の小さな部屋で、監督のご自宅で、遠征先のホテルで、試合前の2人の共通の時間となりました。
監督退任後には、激励に来てくださったニューヨークでも一緒に素振りしましたね。監督の現役時代も、毎日自分自身と向き合い、素振りを欠かさなかったと私に話してくださいました。野球選手として成長するために最も大切なこと、試合での自分の結果に一喜一憂することなく、常に次に向かう姿勢を、毎日の2人の時間を通じて自然と教えてくださったと感じています。残念ながら、私は長嶋茂雄の選手時代にはまだ生を受けておらず、監督の現役時代のプレーを見ることはかないませんでした。しかし、日本のプロスポーツの歴史上、最大のスーパースターの1人だった監督の現役時代を私も生きていたなら、ただでさえ監督がまとっている強く大きなオーラにさらに圧倒され、私は気後れしていたかと思います。現役時代の長嶋茂雄を感じることができなかったからこそ、私は恐れることなく、素直な心で真正面から監督に向き合い、一直線に監督の懐に飛び込んでいけたのだと思います。私が誰から野球の多くを学んだと聞かれれば、長嶋茂雄と胸を張って言える誇らしい気持ち。その半面、それを自負するのであれば、プレーでファンを熱狂させ、魅了し、チームに勝利をもたらし、誰からも愛される存在になる。それら全てを強く意識しなければならないことでもあります。しかしながら、私が監督の存在に近づけたわけでもなく、監督の光輝く背中はずっと遠いままであります。長嶋茂雄の存在は大きすぎます。私は今でもその背中を遠くから眺めているだけです。
監督の告別式では、監督に感謝の意をお伝えすることができませんでした。お伝えすると、あっという間に監督が遠くに行ってしまうような気がしたからです。しかし、今日はあのドラフト会議の日からちょうど33年。私自身の気持ちに区切りをつけるためにもお伝えします。私をジャイアンツに導いてくださりありがとうございました。大きな愛情と情熱で接していただき、たくさんのことを授けてくださりありがとうございました。胸を張って自分の師は長嶋茂雄だと言える幸せをありがとうございました。監督によって私の野球人生は美しく彩られました。ありがとうございました。まだまだ伝えきれない感謝がたくさんあります。それでも、この期に及んでまだお願いがあります。私の心の中に入り込み、私との対話に付き合ってくださればうれしいです。私は自分の心の中の長嶋茂雄と話し合いながら、私なりの道を進んでまいります。今後もよろしくお願いします。そして、これからも長嶋茂雄しか持っていない偉大な光で、ジャイアンツと日本の野球の未来を照らし続けてください」。
力強いまなざしで祭壇を見上げ、最後の言葉をつむいだ。
長嶋氏と松井氏のアラカルト
◆始まり 星稜3年だった92年ドラフトで4球団が1位指名で競合。93年から巨人監督となる長嶋氏が抽せんで引き当てた。直後に送った色紙には「松井君、君は巨人の星だ。ともに汗を流し王国をつくろう」。幼少時代からファンだった阪神の指名を希望していた松井氏は、この言葉で巨人入団を決意した。
◆松井畳 入団してから4番育成1000日計画として、松井氏が旧ジャイアンツ寮生活を送った93~96年半ばまで、部屋でマンツーマン指導で素振りを繰り返した。擦り切れた畳は「松井畳」として伝説に。
◆同時受賞 13年5月5日に2人一緒に国民栄誉賞を受賞。東京ドームで松井氏の引退セレモニー、国民栄誉賞の授与式、試合の始球式が行われた。松井氏が投げ、長嶋氏がバッターボックスに立った。
◆開会式 コロナ禍で開催が1年延期された21年夏の東京五輪では両氏に王貞治氏を加えた3人で開会式の聖火ランナーを務めた。1人では歩行しづらい長嶋氏を松井氏が体で支え、数十メートルをリレーした。



