連続フルイニング出場の世界記録を持つ阪神金本知憲外野手(44)が12日、今季限りでの現役引退を表明した。会見では時折、目を潤ませ、FAで阪神移籍後に2度優勝を経験したことを「幸せ」という一方、右肩の負傷から不本意な成績に終わった最近3年間を「惨め」と悔いた。夜のヤクルト戦では9回、代打で出場して中飛。今季最終戦の10月5日ヤクルト戦(甲子園)まで1軍ベンチ入りし、474本塁打で並ぶ田淵幸一を抜いて、バットを置く。

 さすがの鉄人もこらえ切れなかった。テレビカメラ約20台、100人以上の報道陣が詰めかけた引退会見。すっきりした表情で語っていた金本が突然、崩れた。真っ先に引退を伝えたという母親との会話を問われた時だった。「体のケアをこれからしてくれと…」。そこまで言うと、声が詰まった。目が潤んだ。

 続けてファンへの思いを問われると言葉にならなかった。「かなり落ちぶれてからはバッシングとかも多かったですけど、こんな成績でも一生懸命励ましてくれたファンというか…」。

 必死で上を向いた金本の頬を涙がつたった。

 「特にこの3年間は惨めというか自分がみっともなくて、かわいそうというか。自分でかわいそうというのもおかしいのですが、プロに入って、最初と最後の3年間は、こんなに苦しい人生あるんかなという3年間だった」

 野球人生をこう振り返った。エリート街道ではなく、たたき上げの道をきた。特に右肩棘上(きょくじょう)筋断裂という大けがと闘った最後の3年は地獄だった。苦しみが深かった分だけ支えてくれた人たちのことを思うと、感情がこみ上げた。

 「いろいろ理由はたくさんありますし、自分に対する限界かなという思いもありますし。時代の流れというか若手に切り替わっていく中で、いつまでもいいときのパフォーマンスが出せない自分がいるのも、やはり肩身が狭い思いもありましたし、体がしんどいなっていう思いもあります」

 引退理由をこう語った。9月2日、球団から進退について問われると、自分の中で10日後に結論を出すと決めた。そして、10日の夜に引退を決めた。打って、走って、守る。誰よりもグラウンドに立ち続けた鉄人は代打起用が続く中で、身を引く決断をした。

 「タイガースの歴史の中で一番強くてお客さんが入って、一番人気があった時期にやらせてもらって。タイガースに来てから幸せな野球人生だった」

 阪神の4番という過酷な看板を背負い続けた男は、それでもなお、タテジマを着ている時間が幸せだったと振り返った。

 「(阪神の4番は)過酷ですよ。まあ、新井のお兄ちゃんには無理でしょう」。涙の後の湿っぽさを笑いで吹き飛ばした。厳しさと温かさが同居する。だから「アニキ」と慕われる。そして、伝統球団に黄金時代をもたらした鉄人は、最後の教訓を後進に残した。

 「若い選手には悔いばかりになってほしくない。もっと、振っておけば、もっといい打率が残せたかなと思うし。きりがないくらい上を目指してほしい」

 妥協なきその背中を見て、どれだけの選手が育ってきたか。強いタイガースの「象徴」は計り知れない財産を残し、グラウンドを去る。【鈴木忠平】

 ◆金本知憲(かねもと・ともあき)1968年(昭43)4月3日、広島県生まれ。広陵、東北福祉大を経て91年ドラフト4位で広島入団。02年オフにFAで阪神に移籍した。03、05年のリーグ優勝に貢献し、05年はMVPを獲得した。04年打点王。ベストナインは広島時代に3度、阪神時代に4度選出。180センチ、88キロ。右投げ左打ち。

 ◆金本の苦闘の3年間

 10年3月17日、オープン戦の試合前練習で若手選手とぶつかり右肩を負傷。後に右肩棘上筋の完全断裂と判明する重症だった。開幕を4番左翼で迎えたが内野送球にも苦労し、4月18日横浜戦(横浜)の試合前に先発を外してもらうように首脳陣に直訴。世界記録の連続フルイニング出場が1492試合で止まった。

 11年1月のテレビ番組で「肩が治らなくて去年のような感じならやめざるを得ない」と決意を語る。同年4月15日中日戦で8回2死一塁で代打に立ったが、走者の俊介が盗塁に失敗。連続試合出場も史上2位の1766試合で止まった。同年オフの契約交渉は1億4000万円減の2億2000万円(推定)で更改。12年も苦闘は続き、8月下旬には腰の張りを訴えチームと別行動をとることもあった。