<フェニックスリーグ:ロッテ1-7ソフトバンク>◇22日◇天福

 難病克服への大きな1歩を踏み出した。6月21日に黄色靱帯(じんたい)骨化症の手術を受けたソフトバンク大隣憲司投手(28)が22日、宮崎でのフェニックスリーグ・ロッテ戦(日南)で144日ぶりとなる実戦復帰を果たした。1イニングを無失点。壮絶なリハビリからカムバックした左腕は、来季の先発ローテ復帰を誓った。

 わずか5球だった。待ちに待った、尊い5球だった。大隣に勇気と自信をよみがえらせた5球だった。8回から2番手として登板。病気ではなく緊張から足が震えていた。喜びと同時にマウンドに立つ不安もあった。

 初球に選んだのはスライダーだった。「足の裏の感覚が戻ってきた」と、まだしびれが残る左足に、しっかりとした手応えを感じた。熱いも冷たいもわからない状態だった4月末の発症時には考えられないことだった。

 先頭を直球で左飛に。次打者はカーブ1球で三塁ゴロ、4番大松は2球目のスライダーで二ゴロに打ち取った。「今日は投げられる喜び、楽しさを味わった。これで1歩踏み出せた」。最速は135キロ。まだまだ本調子とは言えないが、今季中に実戦に立てたことが大事だった。

 「早期で手術したことが一番大きい」。痛みを我慢せず、今季を棒に振っても来季の復活に懸けた。6月21日に都内の病院で手術。背骨を10センチほど開いた。「1人だけだったらどうしようと思った」。一番の支えはつきっきりで看病した優子夫人だった。大隣の左足代わりとなって献身的にサポートした。この日、福岡から駆けつけ、スタンドで夫の復活を目に焼き付けた。「よかった。最高」。さまざまな思いが去来したが、笑顔で握手を交わした。

 ゴールはここではない。フェニックスリーグではあと1、2試合登板し、11月の秋季キャンプでしっかり鍛えていくつもりだ。「来季は摂津さんと争えると一番いい。しっかり左右でチームを支えたい。開幕投手も(摂津から)揺らぐようにしたい」と、12勝を挙げた昨年のように再び左のエースとなる決意だ。

 この病気を克服し、プロの1軍で完全復活した投手はまだいない。「僕が1軍で活躍することで道が開ければいい」。同じ難病に悩む人々に勇気を与えるためにも屈しない。大隣の復活ストーリーは、これから何ページも書き記されていく。【石橋隆雄】<今季大隣の苦闘>

 ◆WBC

 3月WBC日本代表として2試合に登板し1勝1敗。

 ◆開幕ローテ

 チームに戻り開幕ローテション入り。5試合目の4月29日ロッテ戦(QVCマリン)で今季2勝目を挙げるが「(試合の)初球を投げたときに痛みを感じた」と腰痛を訴え、5月3日に出場選手登録抹消。

 ◆1度は復帰

 2軍での調整を挟み、5月23日に再登録。2試合投げ5月31日広島戦(ヤフオクドーム)で5回0/3、3安打2失点で今季3勝目を挙げるが再び腰痛に悩まされる。

 ◆難病判明

 6月1日に再び登録抹消。検査の結果黄色靱帯骨化症と分かる。

 ◆手術

 6月21日に都内の病院で手術。摂津らが見舞いに来る。

 ◆再起へ

 1カ月後の7月22日、約20メートルの距離でキャッチボール。9月27日捕手を座らせてブルペン投球を開始。

 ◆打撃投手

 10月5日から打撃投手に登板。3度目となった10日には防護ネットを使わず、実戦形式で投球した。

 ◆黄色靱帯骨化症

 脊髄の後ろにある椎弓と呼ばれる部分を上下につないでいる黄色靱帯が、骨化して脊柱管内の脊髄を圧迫する。症状としては下肢の脱力やしびれがみられ、悪化すると両下肢まひをきたすこともある。原因不明で、厚労省が難病に指定している。

 ◆黄色靱帯骨化症にかかったプロ野球選手

 89年に新人王を獲得したオリックス酒井は93年シーズン中に発覚。復帰を目指したがその後1軍登板なく96年限りで引退。オリックス宮本は06年春季キャンプ中に発症。07年の育成選手を経て08年支配下選手登録。1軍で2試合登板したが、翌09年は登板なく引退した。巨人越智は12年4月に発覚し6月末に手術。その後1軍での登板はない。