10月4日は、今月1日に79歳で亡くなったアントニオ猪木さんが、マサ斎藤と関門海峡に浮かぶ巌流島(現船島)で決闘した日である。(以後、敬称略)

あの宮本武蔵と佐々木小次郎が江戸時代に対決した歴史的な地で行われた、プロレスを超えた死闘として日本のプロレス史に刻まれている。

今から35年前の1987年(昭62)10月4日、夕闇が迫った夕刻にゴングが鳴った。頭突きやパンチの応酬で、両者とも顔面を血で染めた。斎藤は胸を痛め、猪木は脱臼した肩を入れ直して試合を続行した。リングと野原で、いつ果てるともなく、男の意地がぶつかり合った。

2時間を過ぎると、2人とも意識もうろうとなり、フラフラになった。それでも殴り合う。最後は猪木が裸絞めで斎藤を絞め落とし、立会人の山本小鉄と坂口征二が試合を止めた。プロレスの常識を超える2時間5分14秒の激闘。猪木は昭和の武蔵になった。

猪木は当時は44歳。人生最大の危機を迎えていた。体力は下降線をたどり、新日本プロレスでは藤波、長州力らと世代交代の時期を迎えていた。ブラジルで興した事業会社「アントンハイセル」が経営破綻して、数億円単位の借金も抱えていた。そして私生活でも女優の倍賞美津子と離婚危機を迎えていた。

08年の日刊スポーツの取材に猪木は「プロレス人気が下がってきた時期にオレの離婚が重なって、あの時は自殺を考えていた。不安だらけで、うまくいかなかった。本気で死を決意した。すると逆に開き直ることができた。このまま終わるわけにはいなかい。死ぬ前に大きな花火を打ち上げようと思った。どうせ死ぬなら、戦って死のうと」。

そう思った時、歴史に残る決闘「武蔵と小次郎の戦い」が頭に浮かんだという。「ファンにこびるつもりはない」という気持ちと、武蔵と小次郎になり切るために、無観客、無報酬の戦いにこだわった。この荒唐無稽とも思える決闘の対戦相手に手を上げたのが、東京プロレス時代からの盟友マサ斎藤だった。猪木は死も覚悟した決闘に臨むため、2日前に離婚届を提出。身辺を整理して、巌流島に渡った。

昭和の時代によみがえった『巌流島の決闘』は、メディアの注目を集め、無観客の無人島の上空には、報道陣のヘリコプター4機が旋回した。そして度肝を抜く壮絶な試合内容は、「猪木いまだ健在」を全国にアピールする結果となった。

猪木は後に日刊スポーツの取材に「マサもあの試合の後に、プロレスラーになって良かったと言ってくれてね。結果的にオレの離婚騒動に負けない大きな話題になった。一発逆転になったんだ」。

死も覚悟したリングで、猪木は息を吹き返した。命をかけた人間の限界を超えた戦いを乗り越えて、闘魂の炎が再び赤々と燃え盛った。世間をあっと驚かせた大バクチは、窮地に陥っていた猪木の人生を好転させる大きな節目になった。【バトル取材班】