武藤敬司(60)のラストマッチの相手に指名された新日本プロレスの内藤哲也(40)は、幼少期から武藤の大ファンだった。

その上で、花道を飾らせる気はないと言い切った。プロレスラーを目指すきっかけとなった“プロレスリングマスター”に「完勝」することが、自身に課された試練だという。相まみえる21日の東京ドーム大会を目前に、ヒーローへの思いを打ち明けた。

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それは、内藤がプロレスファンに戻った瞬間だった。1月21日、新日本横浜アリーナ大会の試合後の花道。「内藤!」と呼び止められた。声の主は、ゲスト解説で訪れていた武藤。自身の名前を呼ばれたのは、これが初めて。その場で引退試合の相手に指名されたことよりも、このひと言が強く、心に響いた。

武藤は内藤のヒーローだった。「記憶がないくらい昔からファン。俺は野球とサッカーをやっていたんで、運動神経がいいところに憧れたんでしょうね。そのスタイルが子ども心に突き刺さった」。

90年代のプロレス黄金期。小中学生時代の日課は、友人とのプロレスごっこだった。録画した武藤の試合をスローモーションで繰り返し見続け、一挙一動を研究した。制服のワイシャツの下は、いつも「武藤Tシャツ」。高校に入学すると、ヒーローと同じ柔道部への入部を希望した。

だが、その憧れを断つ時が訪れる。02年。武藤の新日本からの離脱を知ると、お気に入りの武藤フィギュアをゴミ箱に投げ捨てた。「なんで出ていってしまうんだ、と。恨みや悔しさが大きくて…。迷ったけど、やっぱり俺は新日本の武藤敬司が好きだった」。“英雄”の決断は、それほど受け入れがたいものだった。

05年、その新日本に入門。プロレスラーとなったが、武藤が得意とするドラゴンスクリューや足4の字固めは、意地でも使わなかった。それでも、イズムが体に染みついていたのか。ファンからは、ことあるごとに「武藤に似ている」と言われた。不思議と、悪い気はしなかった。

そして12年1月。東京ドーム大会で初めて武藤と体をぶつけ合った。結果は何もできずに完敗。今年1月は、6人タッグマッチで対角線上に立ったが組み合う時間はなかった。だが、今度は違う。1人でたっぷりと武藤敬司を堪能できる。己に課した使命は「完勝」。花道を飾らせる気は、さらさらない。

「プロレス界の先頭を走る人間と、引退する人間の差を見せなければならない。『もうかなわない』『俺はリングで輝けない』。そう自覚させて、リングから下ろしてあげたい」。わだかまりは、ない。それが、最高の恩返しだと信じている。「内藤哲也」をプロレスに熱中させてくれた男への-。【勝部晃多】

◆内藤哲也(ないとう・てつや)1982年(昭57)6月22日、東京都足立区生まれ。05年12月に新日本に入門。06年5月にデビュー。13年8月、G1クライマックスで初優勝。メキシコ遠征から戻った15年に「ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン」を結成し、大ブレーク。16年4月にIWGPヘビー級王座初戴冠。得意技はデスティーノ。180センチ、102キロ。