横綱稀勢の里は横綱昇進後、在位12場所中、皆勤2場所に終わった。新横綱として初めて臨んだ一昨年3月の春場所で負った大けが致命傷になった。けがとの闘い、その裏にあった決断などを、最後に皆勤し、2桁勝利を挙げた秋場所前の昨年9月に父萩原貞彦さん(73)が明かしていた。引退に際し、もがき続けた父子の戦いの跡に迫る。

【取材・構成=高田文太】

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稀勢の里を相撲界へと導いたのは、元アマチュアボクサーの父貞彦さんだった。後の横綱、寛少年に土日の大相撲中継を見せ、小学校2年でまわしをつけさせた。英才教育だった。

最初の進退場所となった昨年9月の秋場所前に、貞彦さんは稀勢の里のけがとの葛藤、復活プラン、素顔などを明かしている。

横綱の力士生命を縮めたのは新横綱で迎えた一昨年春場所13日目、横綱日馬富士戦で負った大けがだった。寄り倒されて左の大胸筋や肩を痛めて、うめき声を上げた。だが、千秋楽で大関照ノ富士を優勝決定戦の末に退け、逆転優勝で大きな感動を呼んだ。

ただ代償は大きく、その後、横綱として歴代ワーストの8場所連続休場。当時を振り返り、貞彦さんは「復活に向けて2つの選択肢があった」と明かしていた。(1)突き、押しを多用して相撲を変える。(2)もう1度、基礎から鍛え直す。稀勢の里は(2)を選んだ。貞彦さんは「相撲を変えるのは簡単。でも、また強い四つ相撲を取るために、基礎から鍛え直す道を選んだ。時間がかかるのは承知の上」と説明していた。長期休場をも覚悟。その上で、目先の白星より再び何度も優勝できる可能性に懸けたのだった。

しかし誤算があった。負傷した左大胸筋、左上腕二頭筋の状態だ。貞彦さんは負傷前と比べて、たった30%程度の力で一昨年夏、名古屋の両場所に臨んだとみていた。一昨年九州、昨年初の両場所でようやく50%程度。そして10勝した昨年秋場所で「70%ぐらいまで戻った」とみていた。それでもまだ7割の力だった。

そんな中、出場しては途中休場を繰り返し「回復具合を見誤った」とも父は分析する。けがをする前と同じスタイルで、稀勢の里の王道を貫き、復活を目指した。その決断は尊重しつつ、出ては休む、その判断を後悔もしていた。

大けがを押しての感動の逆転優勝。代償は大きく、8場所連続休場で風当たりが強まった。その裏で貞彦さんも息子とはまた別の厳しい現実と向き合っていた。胃がんの手術を受けたのは、昨年11月の九州場所中だった。胃の3分の2を切除。手術から10日ほどで退院した。完全復活を目指す息子より先に元気な姿になった。転移や後遺症もなく元気に過ごしている。

けがとの壮絶な闘いを続けていた稀勢の里は「良い医者を知っているから」と千葉・松戸市の病院を、人知れず手配した。心配をかけまいと父には直接連絡しなかったが、母や姉には逐一、父の経過を確認していた。父の手術は周囲に一切伏せ、成績不振で九州場所は途中休場したが、その言い訳には一切しなかった。絆で結ばれた父子は、人知れず、互いに闘っていたのだ。

横綱昇進後の約2年、貞彦さんは苦悩する稀勢の里を見続けてきた。強さで存在感を示すことができなかったが、若い衆のころは1日100番にも及ぶ猛稽古で番付を上げた。関取衆となっても、他の部屋が四股やすり足などの基礎運動に終始したり、休みに充てたりといった初日2日前に、50番も取っていた。

努力で成長してきた稀勢の里を象徴するように、貞彦さんは、中学の卒業文集の存在を明かしている。将来の横綱、寛少年はしっかりとこう書いている。

「天才は生まれつきです。もうなれません。努力です。努力で天才に勝ちます」

努力に次ぐ努力で苦難を乗り越えてきた、人間くさい横綱が、ついに土俵を去った。

元横綱になった息子について、この日、父は「(引退の話は)聞いている。なんとも言えない」とだけ口にした。言葉少なだったのにはわけがある。今場所は、あらゆる取材を断っていた。場所前には横綱審議委員会(横審)から史上初の「激励」を決議された。いよいよ後がない場所に集中させたい親心からの配慮だった。厳しい結末になったが、たくましい父子は、しっかりともがき、耐えてこの日を迎えたのだった。