大相撲春場所を11勝4敗で終えた関脇朝乃山(26=高砂)が、富山県出身では太刀山(横綱)以来111年ぶりとなる大関昇進を確実にした。連載「新大関朝乃山 “富山の人間山脈”の軌跡」では、まず幼少時代を振り返る。第1回はひょんなことから始まった相撲人生。

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ひょんな出来事だった。富山・呉羽小に通っていた4年生の朝乃山少年はある日、学校の先生に「握手をしよう」と握手を求められた。担任の先生ではない。名前ももう覚えていない。右手で握手をすると「相撲に向いているね」と女性の声で言われた。数日後、母佳美さんに突然切り出した。「相撲の試合に出るから。お昼から行くから」。混乱する母をよそに、地元で行われた地区大会に出場した。朝乃山の相撲人生が幕を開けた。

94年3月1日。3678グラムの健康体で産声を上げた。性格は明るく、幼少期は保育園に行くのが何よりの楽しみだった。友達とよく遊ぶ、ごく普通の少年。小学1年で始めたスイミングは長続きしなかったが、ハンドボールの少年団に入ると、キーパーで県の強化選手に選ばれた。だからこそ両親からも、相撲を始めた時は遊び半分だと思われた。

呉羽中に進学しハンドボール部に入部した直後の5月ごろ、夜8時になっても練習から帰って来なかった。心配している両親の元に、担任の先生から電話があった。「実を言うと石橋君はハンドボールを辞めて相撲部に行こうと思っているらしく、今見学に行ってます。心配しないで待ってて下さい」。見学が終わり、退部届と入部届を手に帰宅。「相撲部に入るから、ハンコを押して下さい」と母佳美さんにお願いした。

なぜ相撲をやりたいのか、理由は両親に言わなかった。だが両親も「やめないということは、やりたいということでしょ」と息子の気持ちを察する。呉羽小時代は、富山出身の横綱・太刀山の遺族が寄付した「太刀山道場」で稽古に励んだ。朝乃山本人も「道場がなかったら相撲をやってなかった」と感慨深く当時を振り返る。さまざまな巡り合わせがあったからこそ、今の朝乃山がいる。【佐々木隆史】