三役を13場所務め三賞も10回受賞し相撲巧者として活躍した元関脇豊ノ島(36=時津風)の引退が17日、決まった。日本相撲協会は同日、理事会を開き、豊ノ島の引退及び年寄井筒の襲名を承認した。

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、記者会見を開けなかった井筒親方だが、報道陣の取材には電話で応じた。

-18年間を振り返って

豊ノ島 自分自身も長かったと思うけど、終わってしまえば長いような短かったような。もう終わったという感じ。

-思い出の一番は

豊ノ島 聞かれるなと思ってずっと考えていたけど、多すぎてなかなか難しい。白鵬関との決定戦(10年九州場所)、菊(琴奨菊)とやった一番(琴奨菊が優勝した16年初場所)。他にもあるけど絞ってその2つです。それが記憶に残っている。

-引退を決めたタイミングは

豊ノ島 正直、大阪場所で通常開催だろうが無観客開催だろうが、負け越したら辞めるつもりだった。そう僕自身の中では決めていた。1月(の初場所)もそうだったけど、その時は家族と話してもう1場所、頑張ろうとなった。そうなったので大阪で負け越して終わりだと思った。東京に帰ってから、いろいろ話をまとめた。コロナというのもあったけどね。

-「第2検査」(体の小さな入門希望者を対象とした新弟子検査)で初の関取だった

豊ノ島 はじめは自分なんかがと思っていたけど、舞の海関が頑張っている姿を見て、小さいのにすごいなと思った。自分が頑張ることで小さい子が頑張れると思ってやっていた。

-アキレス腱断裂などケガも多かった

豊ノ島 しんどかったし本当に家族がいなかったら辞めていた。本当に家族のおかげ。よく「家族のおかげ」と言うじゃないですか。14勝1敗の時(白鵬との優勝決定戦で敗れた10年九州場所)は全く思っていなかった。土俵に向かう時に、めっちゃ孤独を感じていた。周りの応援がすごすぎて。でも1人だったら絶対にダメだった。18年の相撲人生の中でその両極端を経験できたのは良かった。

-関取に復帰した時の気持ちは

豊ノ島 戻った時は前とは違った。正直、もう少し幕内で取れると思ったけど、そう簡単にはいかなかった。(19年)名古屋場所で千代大龍と7勝7敗で当たった。(結果負け越し)。勝ってもギリギリ8勝なんだなと思った。

-後悔は

豊ノ島 悔いはありませんけど、あるとすればもう1回、菊(琴奨菊)とやりたかった。(19年)名古屋は本当にやりたかった。これから菊とは真剣勝負がないわけですからね。

-どんな指導者になりたいか

豊ノ島 今まで指導している親方を見てきて、どうしたら(弟子に)伝わるのかなと考えていた。自分はその子が出来るまで付き合っていける指導がしたい。ほったらかしにするのではなく、どこまでも付き合っていくのが大事だと思う。どこまでその子たちに付き合えるか。まわしの切り方とか体の寄せ方を教えるのは簡単。どれだけ付き合えるかを大事にしたい。自分が、めちゃくちゃ(稽古を)やるタイプではないというのは理解している。(弟子に)「一生懸命指導するから頑張れよ」と言いたい。ケガしてから考え方も変わった。一番一番大事にしてきたから。