ジャニーズ事務所社長のジャニー喜多川氏(享年87)は、1962年(昭37)の創業以来、数多くのタレントを世の中に送り出し、日本でのエンターテインメントの創出に力を注いできた。タレントの売りこみも自ら行い、担当記者にもいつも熱く語ってきた。そんなジャニー氏について、歴代のジャニーズ事務所の担当記者たちが悼んだ。

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繊細で、やさしい人だった。どんなタレントも名前ではなく「ユー」と呼ぶ。「ユー、どうしたの」「ユーは最高だね」と話しかける。理由を聞いた。「名前で呼んでもいいけど、ウチは大勢いるでしょ。もし間違えたり、思い出せないで考え込んでいたら、相手はきっと悲しむ。だから平等に『ユー』って呼ぶことにしたんですよ」。

16歳の木村拓哉が初舞台本番前に緊張していると感じ、楽屋ロビーで世間話をした。「本番が始まってしまって、あわてて走っていきました。おかげであれこれ考えず舞台に立てたと思いますよ」と笑った。

人任せにせず、何でも自分でやる人だった。80代に入って控えたが、車移動では、ハンドルを握ることが多かった。東山紀之を始め、路上で見かけてスカウトした例もある。デビュー前のSMAPメンバーをファミレスなどに連れて行くこともあった。

新幹線も飛行機もチケットは基本的に自分で買う。スタッフに頼まないので、事務所幹部も行き先や居場所が分からないことも。都内にいると思ってスタッフが連絡すると「今、大阪だよ」などということもよくあった。

滝沢秀明を香港で取材して帰国した時、大雪で搭乗機が成田ではなく関空に降りた。特急、新幹線を乗り継いで帰京したが、スタッフに頼まず、みどりの窓口に真っ先に駆けていき「とりあえず買っておきましたよ」と滝沢やスタッフ、私たちに切符を配った。手際の良さに驚いた。

スター育成が最大で唯一の関心だった。会社にほとんど寄らず、劇場や稽古場を飛び回り、いつもタレントのそばにいた。ファッションには無頓着。ブランドものにも無関心。カジュアルなシャツにジャンパーを羽織って、さっそうと動き回った。

取材を兼ねて当時のマンションにお邪魔すると、大型テレビの周りにゲーム機があった。タレントと一緒に遊びながら話をするという。「若い子の考えていること、興味、関心は、目線を合わせたそういう時に分かるものなんです」。自ら耳を傾けてリサーチした。

こうした小さな積み重ねが、一大エンターテインメントを作り上げていった。

【02年~08年ジャニーズ事務所担当・松田秀彦】