歌手八神純子(61)がコンサートツアー「Live キミの街へ~Here We Go!」の真っ最中だ。9月8日には東京・Zepp DiverCityで開催する。

「自分自身でプロデュースして、自分がリスクを負ってやっている。米国移住から、11年に日本で音楽活動を再開して8年たった。行ったことのない街へどんどん行って、活動再開のごあいさつをしています」。

高校時代にヤマハポピュラーソングコンテストで入賞して、78年に「思い出は美しすぎて」でデビュー。40年前と変わらぬキーで、3オクターブの音域を誇っている。「年齢とともに、自分の使いたい声が曲によって使い分けられるようになりました。若い頃は“高い声”を必ずサビの部分に持ってくるように曲を作ってましたけど」と笑う。「声は、いつまでもうまくなります。継続は力なり、出なかった声も出るようになります」と話している。

デビュー曲に続いて「水色の雨」「ポーラー・スター」「パープルタウン」「Mr.ブルー~私の地球」とヒット曲を連発。86年にイギリス人音楽プロデューサー、ジョン・スタンレー氏と結婚して、翌年に渡米した。その後は、ロサンゼルスで主婦、子育てをしながら、マイペースで音楽活動を続けた。「デビューしてから、日本で9年しか活動してなかったんですよね。初めて書いた曲が入賞してプロになったから、やるべきことをアマチュア時代にやっていない。初めてのコンサートはプロになってからでした。正直なところ、だから多分、息が続かなかったんだと思います」と振り返る。

アメリカで曲を作りながら、毎年帰国してコンサートを続けていた。「アメリカになじめるタイプと、そうじゃない人がいると思うんですが、私は大丈夫だった。和食じゃなくても平気だし、どうしてもというときは、ロスだから材料を買って来て自分で作ればOKだった」。

だが、01年9月11日の米中枢同時テロ事件で活動休止を余儀なくされた。「その後に、日本でコンサートツアーがあったんだけど、アメリカを離れられる気がしなかった。足がすくんで動けなかった。それくらい衝撃を受けました。迷惑をかけちゃいけないと、とりあえずツアーをキャンセルしたんですけど、その後、日本でのコンサートが難しくなった」。

再び、同じような衝撃に襲われた。11年3月11日の東日本大震災だ。「翌朝に日本に行く予定で、荷物のパッキングをしていたんだけど、日本の大変な映像が流れてきた。福島も大変な事になっていて『来ない方がいい』と言われたんだけど、とにかく日本に行かなくてはと。飛行機がキャンセルになっちゃったので、ハワイ経由で。日本に大変なことが起きた、駆けつけなきゃと」と振り返る。

そこから再び、動きだした。「トランス・パシフィック・キャンペーン」を自ら企画して、被災地での支援活動を始めた。「多発テロの時は足がすくんでしまったけど、東日本大震災の時はできる限り早く東北へ行かなくてはと。自分のできることは何かと探しました」と言う。

合わせて、日本での音楽活動も再開した。「日本での活動に戻ってきて8年になりますが、活動していた年月よりも休んでいた年月の方が長い。その空白を埋めるためにも『キミの街へ』は続けていく。昔は他人が決めたスケジュールに従って動いていたけど、今は自分で判断している。北海道の小さな町から、コンサートがやりたいとメールが届けば、私自身が何度もやりとりをする。6人のバンドで行ったら採算が合わなければ、私とピアニストだけで行って歌っています」。

空白の期間を埋め、見知らぬ街に行って歌うことで見えてきたこともある。「自分で仕事をコントロールすることが楽しい。もちろんリスクを負うこともあるけど、だからこそ真の喜びをかみしめることができる」と話している。

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◆八神純子(やがみ・じゅんこ)1958年(昭33)1月5日、名古屋生まれ。74年ヤマハポピュラーソングコンテストで「雨のひとりごと」が優秀曲賞に。同曲でプレデビュー。78年「思い出は美しすぎて」でデビュー。同年「水色の雨」がヒット。79年「ポーラスター」。80年「Mr.ブルー」「パープルタウン」がヒットし、NHK紅白歌合戦出場。87年に米ロサンゼルス移住。00年のクリスマスコンサートを最後に、日本でもコンサート活動中止。11年日本でのコンサート活動再開。16年コンサートツアー「キミの街へ」開始。