今月10日に渡哲也さんが亡くなりました。78歳でした。ニッカンスポーツコムでは、その実像に迫る連載「知られざる渡哲也」を配信中です。第4回は「反対だった新人の軍団入り」です。

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石原プロモーションは2000年(平12)に、新人発掘大型オーディション「21世紀の石原裕次郎を探せ!」を実施した。応募5万2000人の中から将来のスター候補が選ばれた。石原プロ創設以来初のオーディション。審査委員長を務めた渡さんは、発表会のステージで「ベストの人間を選んでくれたと裕次郎さんもきっと言ってくれる」と話したが、実はそこに至るまで気持ちを大きく切り替える必要があった。

あまり知られていないが、もともと渡さんは、新人発掘には積極的ではなかった。裕次郎さんから引き継いだ「石原プロモーション」の在り方に、強いこだわりを持っていたからだ。

オーディション実施の3年前のことだ。主演映画「誘拐」の撮影合間に2人きりで話す機会があった。話題が「石原プロ」になった時、日ごろの疑問をぶつけた。「他のプロダクションのように新人は採らないのですか」。答えは明快だった。「うちは俳優を育てる会社ではないんだ。映画の製作会社なんだよ」。

言葉通り、裕次郎さんが設立した石原プロは、監督やプロデューサー、撮影、照明、編集など各部門の専門スタッフが所属し、撮影や照明の機材や運搬用の大型車両も自前のものを所有していた。目的は「映画製作」であり、「スター育成」ではなかった。

渡さんも、既にスターとしての地位を築いていた29歳の時、経営危機に苦しむ裕次郎さんを救うために志願して入社した。舘ひろしや神田正輝も、裕次郎さんや渡さんに、一緒に仕事をする仲間として誘われて石原プロに加わった。「新人オーディション」とは無縁の会社だった。

渡さんは言った。「新人を入れても育て方が分からない。だから採らないんだよ」。腑(ふ)に落ちるシンプルな答えだった。

2年後、オーディション実施の準備を進めていると知り、あらためて渡さんに聞いた。「反対はしましたよ。責任を持って育てていけるのかと」。しかし、石原プロの経営を任され、オーディション積極派の小林正彦専務に「自分が責任を持つ」と断言された上、「石原プロが今後も映画やドラマを作っていくためには新世代のスターも欲しい。新しいビジネスチャンスが必ず生まれる」と説得されたという。

渡さんには、もう1つ懸念があった。オーディションに裕次郎さんの名を冠することだ。渡さんも日活でデビューした時に「第二の裕次郎」というキャッチコピーで売り出された経験がある。「かなうはずがない人の名前を背負うことは、本当にきついですよ」。身をもって知る苦労を若者に背負わせたくなかった。

こちらも小林専務が、オーディションのスケール感を出すため、話題性を広げるためにも、必要不可欠なことだと力説。渡さんは「育てることはできないが、(重圧から)守ってやることはできる」と考えた。

気持ちを切り替えた渡さんの男らしさが、ここから発揮される。審査委員長を引き受け、スポンサーへの対応なども会社の顔として責任を持って動いた。最終的に新人6人が入社した。

「守り抜く」と決めた誓いは、最大の危機に陥っても忘れなかった。石原プロが総力を結集して製作にあたったスペシャルドラマ「西部警察2003」の撮影中に新人が人身事故を起こしてしまった。(つづく)【松田秀彦】