「北の宿から」などで知られる作曲家で、ドラマ「寺内勘太郎一家」の主演でも親しまれた小林亜星さんが5月30日、心不全のため亡くなっていたことが14日、分かった。88歳だった。

亜星さんは5年前の2016年5月に日刊スポーツの取材に応じ、当時の歌謡界に辛口エールを送っていた。「紅白歌合戦も、みんな昔の歌を歌っている。おじいちゃんから孫まで知っている曲がない。演歌なんて何も新しいものがない。流行歌は滅びたね」と、83歳でなお鋭い視点を示した。また「ポップスはいい曲はある」と、流行に敏感な感性も披露。酒を飲みながら話すのを楽しみと話していた。以下、16年当時のインタビューを再掲します。

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名作ドラマ「寺内貫太郎一家」のDVDが25日に発売される。同ドラマで頑固おやじを演じて俳優として存在感を示した作曲家小林亜星(83)は日刊スポーツのインタビューに応じ、当時の思い出を語った。現在の歌謡界に対する辛口のエールも送った。

数多くのアニメやCMの曲を手掛け、日本レコード大賞を受賞した都はるみ(68)の「北の宿から」の作曲でも知られる。その目に最近の歌謡界はどのように映っているのだろうか。

「流行歌の世界が全くダメ。紅白歌合戦も、みんな昔の歌を歌っている。おじいちゃんから孫まで知っている曲がない。演歌なんて何も新しいものがない。何かに似たような詞ばかり。流行歌は滅びたね。ポップスはいい曲はあるが、世の中、同じ曲ばかり街で流れているのはないよね」

その原因は何なのか。まずは「時代」をしっかりと見つめる目が必要という。

「作曲家、作詞家がいけない。現代を直視して現代を表現していない。演歌はひどい。何とか船とか、何とか道中とか、まだ作っている。殻の中でやっている感じ。昔は演歌はモダンなものだった。みんなが愛する曲を作るには、いろんな経験と音楽的成熟が必要で、そういう人がいなくなった。古賀政男先生たちはモダンだった。そもそも昔は『演歌』という言葉じゃなかった。『流行歌』と言ったもの」

最近は出演機会が減ったが、マルチタレントとしてテレビの仕事を多くこなしていた。テレビ界の現状をどう見ているのか。

「昔は仕事を終えるとみんなで同じ店で飯を食って飲んでいた。そうして家族になっていった。今は、あらゆる点で他人行儀でしゃくし定規。今は仕事でテレビ局に出入りするのさえ大変。作り手はもっと家族意識を持たないとね」

1974年(昭49)に放送されたTBS系ドラマ「寺内貫太郎一家」で頑固おやじを演じた。DVD化が決まり、今月25日に発売される。下町の石材店を舞台にしたホームドラマで平均視聴率は31・3%を記録。70年代を代表するテレビドラマだった。実は演技経験ゼロで参加した。

「もともと脚本の向田邦子さんの太ったお父さんがモデル。多忙なフランキー堺さんと高木ブーさんに断られ、他に俳優がいなかった。TBSのドラマ音楽の仕事をしていた私に話が来たんです」

当時は長髪でラッパズボン(ベルボトム)というファッションだったが、大改造された。

「久世光彦プロデューサーに理髪店に連れていかれ、丸刈りにされ、法被を着せられたら、向田さんが『これが貫太郎よ』となった。TBSは仕事のお得意さんだったので、断れなかった。生きた心地がしなかった。115キロの体重がストレスでもっと太った(笑い)」

演技に自信などなかったが、ちゃぶ台をひっくり返して、西城秀樹が演じた息子を殴りつけるなど頑固おやじを体現してみせた。

「今は昔と違って家族が一緒に夕飯も食べられない。一家だんらんがなくなった。今の方が貧しい。『貫太郎』の時代はみんな心が通じていた。今は忙しい、騒がしい競争の時代。寂しいね。教育も受験のため。我々の時代はしっかりと情操教育を受けた。今は情操より競争。みんな仲良く生きようという気が少しでもあればと思う」

最近の楽しみは、酒を飲みに出掛け、バカ話をすることだという。

「母は102歳まで生きた。俺はそんなに生きるの嫌だけど、死ぬわけにもいかない。運動が嫌いで最近は足元がふらつくね。病院は大好きで4、5軒行っている。『貫太郎』をやっている時から糖尿だけど悪くなっていない。入院は転んでケガした時くらい(笑い)」

元気で陽気。何よりも話すことが大好きな83歳だ。

◆小林亜星(こばやし・あせい)1932年(昭7)8月11日、東京都生まれ。慶大卒。作曲家服部正氏に師事、音楽の道に。レナウン「ワンサカ娘’64」やブリヂストン「どこまでも行こう」などのCM曲や、「魔法使いサリーのうた」「ひみつのアッコちゃん」など人気アニメソングも多数。02年NHK連続テレビ小説「さくら」にも出演。169センチ。