映画評論家の草分け、淀川長治さん(89歳没)が亡くなってから今年で四半世紀となります。「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ…」の締めくくりでおなじみだった映画解説を懐かしく思うのはかなり年配の方ということになるのかもしれません。が、人生を映画にささげたこの人は、最近の社会の変化を予見するかのような言葉も残しています。SFコメディーのアカデミー賞受賞、LGBTQ…。過去の取材から、今も示唆に富む「達人の言葉」を振り返ります。
海外でも多くの映画賞を受賞している北野武監督(76=ビートたけし)は、大先輩の黒澤明監督を「映画界の父」、いつも励ましの言葉をかけてくれた淀川長治さんを「映画界の母」と慕っていました。
その2人が相次いで亡くなった98年の12月、監督作「HANA-BI」の受賞で日刊スポーツ映画大賞授賞式の舞台に立つと「(黒澤さんも淀川さんも)映画にかけて最後まで過ごしたのは幸せなことだと思う。手前勝手ですが、遺志を継ぎ、いい映画をもっと作っていく」と決意を新たにしていました。
北野監督の言葉通り、淀川さんは最後までその人生を映画にささげました。死の前日にも車椅子でスタジオ入りし、「日曜洋画劇場」(テレビ朝日系)の解説収録を行ったのです。
かすれた声を気遣い、スタッフは1回でOKを出しましたが、本人が「汚い」と納得せずに撮り直し、その2テイク目が死の4日後に追悼番組とともに放送されました。
この番組の解説者となるまで、淀川さんは映画誌や、いくつかの映画会社に籍を置いていますが、東宝宣伝部に在籍していたときに、監督デビュー前の黒澤監督と知り合い、以来親交は終生続きました。最後の放送作品として解説した「ラストマン・スタンディング」(ウォルター・ヒル監督)が、その黒澤監督の「用心棒」のリメーク作品だったことに、不思議な縁を感じます。
この番組での名セリフから「サヨナラおじさん」として親しまれた淀川さんですが、その足跡は、まるで映画の神様に導かれるように運命の出会いに満ちています。
「僕の『映画初体験』は3歳の頃。そもそも暗いところにおるのが好きでね。あるとき雨戸の穴から光線が入って、外の景色が逆さまに壁に映ったのね。もう、びっくりしたのを覚えている(中略)本物の映画を観たのは4歳の時。父と母が一緒で、テント小屋で上映された短編だった。弁士の『テケレッツノパッパ』という言葉まで覚えていたのね」(91年の取材から)
米国映画に「愛」を教わった10歳の時には映画で生きようと心に決めたそうです。この時「映画と結婚」した淀川さんは終生独身でした。映画誌の編集者などを経て洋画配給会社で働いていた27歳の時には、「モダン・タイムス」の日本公開を控えたチャールズ・チャップリンと出会い、映画について語り合います。42歳の時には、たまたま滞在していた米ロサンゼルスで、黒澤監督の「羅生門」がアカデミー賞にノミネートされ、代理として栄えある授賞式に出席しました。映画に人生をささげた分、次々に幸運を引き寄せたように思えてきます。
「日曜洋画劇場」が始まったのは57歳の時で、以来32年間にわたって映画解説を続けました。晩年、大病を患ったのをきっかけに、神奈川県鶴見の自宅を離れ、テレビ朝日のスタジオに近い全日空ホテル(現ANAインターコンチネンタルホテル東京)を住居にしました。
91年の連載「21世紀への伝言」は、そのホテルの部屋に当時81歳の淀川さんを訪ね、延べ2時間あまりのインタビューを行ったものです。読み返してみると、現代を言い当てているようなコメントが少なくないことに驚かされます。
「僕の一番好きな映画、チャップリンの『黄金狂時代』(1925年)では、飢えのあまり同宿の友がチャップリンをニワトリに見間違え、ナイフとフォークで追いかけるシーンがある。あれなんか、まさに『夢』が映像になっているわけ、そういうものにしても、文字通りの空想科学映画にしても、好奇心をくすぐるんですな。SFがなくなるということは、映画がなくなるゆうこと。言いたいのはね。映画ってスタートがSFだったからね。トリックでね、それが楽しくてみんなが見たのね。月世界旅行ってこんなんかなあ、夢見たのね。ハイ、これが原点」
シリアスな人間ドラマや社会派作品が主流だったアカデミー賞で、95回を迎えた今年は、荒唐無稽とも言えるSFカンフーアクション「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」(ダニエル・クアン、ダニエル・シャイナート監督)が7冠を制しました。アジア系の台頭など、さまざまな背景もあったのでしょうが、淀川さんに言わせればこれぞ映画の原点を象徴する作品だったのかもしれません。
「日常生活(の描写)でもね、映画は昔からモダンな感じで見てきたものね。いろいろ教わったものね。ホモセクシュアルいうたら変と思われてたのが、アメリカ映画にたくさん出てきて、だんだん偏見減ってきた。これからだってね。奥さん3人とかダンナ3人とか、映画に出てきて、それが当たり前ということになるかもしれん。いつも先行く映画は個人的な先入観とか偏見とか、そんなつまらんものを取っ払ってくれるのね」
現在も課題は多いとはいえ、LGBTQの人たちがごく普通に劇中に登場するようになりました。淀川さんは当たり前のように語っていますが、取材した32年前にこうした人たちが劇中に登場するのはごくまれでした。男性同士の愛を描いた「ブロークバック・マウンテン」がアカデミー賞にノミネートされて話題になったのはこのインタビューから16年後のことです。数少ない作品の子細な描写から、淀川さんは時代の変化や先行きを読み取っていたのだと思います。
10歳で映画を生涯の職業と決めるまで、淀川さんのなりたかったものの1つに「学校の先生」がありました。
「今は『映画友の会』で似たようなことやっているけど、(先生として)大事やな、思うのはほめること。これはそもそも『日曜洋画劇場』の解説始めるようになって覚えたことなのね。最初、話聞いたとき『何? テレビで』思ったね。でも、放送予定聞いて、これやらなきゃいかんと思った。『裸足の伯爵夫人』『山河遥かなり』…名作ぞろいやったから。でも、やっていると、この野郎思うのも出てきて、でも、そう言ったらテレビ局困るでしょ。でもウソはつきたくないから。で、いいとこ探して、ファッションほめたり。今から思えば、僕、やっぱり人好きだから、映画も好きだから、面と向かって憎らしいことゆうても、悪い感情で言ってないから。ほめた方が人生幸せだから。人に押しつけたらあかんけど、やっぱりギスギスすること思うと、ほめた方がいいに決まっている。僕は未来永劫(えいごう)、ほめるゆうの大切だと思う」
世は若貴ブームに沸き、「厳しい稽古」が称賛されていました。国際的にも「ソ連」が消滅し、湾岸戦争が勃発した年です。淀川さんはそんな激動の中でも決してぶれることなく、今なら「パワハラ対策」の一助になりそうなほめ専処世術を説いていたのです。
◆淀川長治(よどがわ・ながはる)1909年(明42)4月10日、兵庫県神戸市生まれ。98年11月11日、89歳で死去。芸者置き屋の跡取り息子として生まれ、映画館の株主だった親の影響で幼少期から映画に親しむ。
日大文学部美学科に通うために上京し、かねて投稿していた「映画世界」誌で編集者として活動、大学には出席せずに中退した。その後、入社したユナイテッド・アーティスツ(UA)では、チャップリンの「モダン・タイムス」やジョン・フォード監督の「駅馬車」の宣伝を担当した。
41年の日米開戦後に米系映画会社が閉鎖されると東宝映画に就職した。戦後は米政府系の配給会社などに勤務。48年からは映画好きの若者を集めて「映画友の会」の開催を始めている。
「日曜洋画劇場」は66年にスタート。当初は「サヨナラ」を言う回数が放送ごとに違ったが、番組宛ての小学生の電話で「サヨナラの回数が賭けの対象となっている」と聞き、3回と決めた。84年に勲四等瑞宝章を受章した縁で、87年には浩宮さま(現天皇陛下)の招きで、両陛下(現上皇ご夫妻)と映画談議に花を咲かせたこともある。
91年のインタビューでは「浩宮さまはルキノ・ヴィスコンティがお好き、天皇陛下は『ローマの休日』、皇后さまは『哀愁』がお気に入りでしたね」と明かした。
◆相原斎(あいはら・ひとし)1980年入社。文化社会部では主に映画を担当。黒澤明、大島渚、今村昌平らの撮影現場から、海外映画祭まで幅広く取材した。著書に「寅さんは生きている」「健さんを探して」など。91年、長時間のインタビューを終えた淀川長治さんは「僕の寿命も来年3月くらいだから、遺影を撮って欲しい」。ジョークと受け止めて笑うと、本人は真顔。同行したカメラマンが襟を正して再度撮影したことを覚えている。