<紙面復刻:1995年7月13日(この道
500人の証言185・山口百恵その1)>
14歳でデビューし、■わたし、何をされてもいいわ■と歌った。歌詞は不良でも、山口百恵が歌うと青春の清らかさが逆に際立った。家庭の主婦が百恵を愛した。「赤い迷路」に始まるドラマシリーズや映画でも、百恵はきらめき、70年代(昭45~)をときめかせた。絶頂期の1980年(昭55)、21歳で潔く芸能界から身を引いた。自伝「蒼い時」で、「女にとっての自立」をこう書いた。「生きている中で、何が大切なのかをよく知っている女性……」。鮮やかな引き際で、今なお輝きを増し続ける「百恵伝説」を、4回連載します。
純白のドレスに着替えた山口百恵は最後の曲「さよならの向う側」を歌い始めた。日本武道館のファイナルコンサートは1980年(昭55)10月5日。デビュー以来7年半、見せたことのなかった涙がほおを伝わった。間奏で、百恵は言った。「私のわがままを許してくれてありがとう……。幸せになります」。
【証言536】
当時の芸能キャップ長倉孝氏(51=日刊スポーツ新聞社編集局長)
「歌い終えると、百恵はマイクをゆっくりとステージの中央に置き、後ろを向いて去っていった。“二度とマイクは持たない”という決意を感じさせた。場内1万2000人の、7割が女性だった。泣き崩れるファンがたくさんいた。21歳とは思えない輝き、ときめきを放っていた」。
21歳。絶頂期での引退だった。TBSテレビでの同コンサート生中継の視聴率は27・1%を数えた。シングルではそれまで31曲を出し、総売り上げは1630万枚。LPは45作品で434万枚。
【証言537】
当時ホリプロ制作部長の小田信吾氏(57=ホリプロ社長)
「理屈ではなかった。愛する人と結婚して家庭を作り、子供を育てるというのが、彼女の価値観であり、美学だった。デビュー間もないころから、自分の強烈な人生哲学を、年齢を超越した次元でしっかりと持っていた」。
1カ月後の11月19日、三浦友和と東京・赤坂の霊南坂教会で挙式した。母正子さん(89年12月死去)の51回目の誕生日でもあった。
【証言538】
当時のホリプロ宣伝部長、守屋邦彦氏(56=元歌手守屋浩)
「年収何億円もあるのをスパッと捨てて、普通の奥さんになった。周囲が驚くほどの、すばらしい決断力だった。堀さん(威夫氏=62、現会長)と“まるで特攻隊だな”などと話し合った。強い信念の持ち主で、彼女は自伝も自分で書いた」。
「蒼い時」(集英社)は引退直前の9月に出版された。百恵はこう書いている。「私は私自身がいったい、いつどこでどんなふうに生まれたのかを、私は知らない」。
父には家庭があり、子供もいた。事業に失敗した後、父が姿を見せることはほとんどなくなった。母正子さんはガリ版の筆耕や洋裁で、百恵と5歳年下の妹を育てた。百恵は横須賀市立不入斗(いりやまず)中時代、読売新聞の朝刊配達をした。
結婚式と同日に発売されたのが、記念シングル「一恵」だった。作詞の横須賀恵は実は百恵自身で、こんな一節が含まれていた。「母にもらった名前通りの
多すぎる程の倖せは
やはりどこか寂しくて(中略)ひとつの愛を追いかけた」。
その3年前の77年(昭52)10月、さだまさしは百恵に「秋桜(コスモス)」という曲を書いた。
■明日嫁ぐ私に苦労はしても
笑い話に時が変えるよ
心配いらないと笑った■
【証言539】
歌手のさだまさし氏(43)
「当時18歳の百恵さんには、まだ歌詞の世界が分かりにくいだろうと思い、“いつか、分かる日がくるといいね”と電話で話した。それから3年、ファイナルコンサートの日に、僕の滞在先の大阪のホテルに戻ると、百恵さんからのメッセージが入っていた。“さださんがこの歌を作ってくれた意味が分かりました。本当にありがとうございました”と」。
■こんな小春日和の穏やかな日は
あなたの優しさが浸みて来る■
【特別取材班】※年齢、肩書きは当時のものです。
[2010年3月30日6時54分]ソーシャルブックマーク