戦前、戦後を通じ70年以上にわたり映画、舞台で活躍、女優として初の文化勲章を受章した山田五十鈴(やまだ・いすず)さん(本名・美津=みつ)が9日午後7時55分、多臓器不全のため東京都稲城市内の病院で亡くなった。95歳だった。02年に脳梗塞で倒れ、その後、一線を退き、高齢者用病院で療養していた。通夜は11日午後6時から、告別式は12日午前11時から、いずれも東京都港区の青山葬儀所で営まれる。

 大往生だった。9日昼、見舞った演出家北村文典氏によると、山田さんは、酸素マスクをして呼吸も荒かったが、800回以上演じた舞台「たぬき」で弾いた三味線テープを聴きながら、首で拍子を取って楽しそうにしていたという。しかし、夜に容体が急変。医師、看護師以外は誰もみとる人がいなかった。直後に駆けつけた北村氏は「苦しむことなく眠るような最期と聞きました。肌はつるつるで、50代のようでした」。オレンジ色のワンピースを着せられ、爪にマニキュア、養子会から贈られたスカーフが遺体にかけられた。

 山田さんは80年ごろに京都の自宅を引き払い、劇場に近い東京・帝国ホテルの一室を借りて住んでいたが、02年4月に脳梗塞で倒れ入院。その後、都内近郊の高齢者用病院に移り、以降、公の場に姿をみせることはなかった。当初は伝い歩きもでき、「まだまだやりたい」と復帰に意欲をみせたが、その後、三味線も思うように弾けなくなり、車いす生活となった。晩年は認知症の症状もみせたが、第2の母として慕う市村正親や演劇関係者の「養子会」メンバーがしばしば訪問。今年2月5日の誕生日には高嶋政伸、榎木孝明、松井誠ら20人近くが集まり、95歳の誕生日を祝った。

 山田さんは4度の結婚、離婚を繰り返し、私生活は恵まれなかった。18歳で俳優月田一郎さんと結婚し、19歳で女優瑳峨三智子さんを産んだが、4年後に離婚した。仕事が忙しかった山田さんは養育を他人に任せ、そのため瑳峨さんとの関係は良くなかった。すれ違いのまま、92年に瑳峨さんが死去。その後も映画プロデューサー、俳優の加藤嘉さん、下元勉さんと結婚したが、離婚。そのほか、衣笠貞之助監督、新派の名女形花柳章太郎との不倫など、恋多き女性だった。

 父は新派女形、母は芸者で、6歳から芸事に親しんだ。30年、13歳で日活の「剣を越えて」で映画デビュー。34年、第一映画に移籍、溝口健二監督の「浪華悲歌」「祇園の姉妹」で注目された。成瀬巳喜男監督が第1回直木賞作品を映画化した「鶴八鶴次郎」で長谷川一夫さんと共演、人気を不動に。長谷川さんとは42年に新演伎座を結成し舞台に立った。戦後は成瀬監督「流れる」、黒沢明監督「蜘蛛巣城」「どん底」、小津安二郎監督「東京暮色」など、巨匠の作品で個性的な演技をみせた。

 60年代には主な活動を舞台に移し「たぬき」「太夫さん」で芸術祭大賞を受賞。初代水谷八重子さん、杉村春子さんとともに「三大女優」と言われた。ドラマでも活躍し、テレビ朝日系「必殺仕事人」シリーズでは三味線おりくで出演。93年文化功労者に選ばれ、00年に女優として初めて文化勲章を受章した。01年7、8月の舞台「夏しぐれ」、同11月の朗読会「桜の園」が最後の仕事になった。

 ◆山田五十鈴(やまだ・いすず)本名・山田美津。1917年(大6)2月5日、大阪市生まれ。父は戦前の新派俳優山田九州男。30年(昭5)に芸能界デビュー。83年芸術選奨文部大臣賞、93年文化功労者など賞多数。00年には女優として初めて文化勲章を受章した。俳優月田一郎をはじめ4人の男性と結婚、離婚を経験。女優瑳峨三智子さん(92年死去=享年56)は月田との間の長女。160センチ。血液型A。