「ガクチカに悩む就活生たち」。新型コロナウイルスショック以降、このような報道をよく目にする。「ガクチカ」とは就活の選考でよく質問される「学生時代に力を入れたこと」の略だ。感染症対策のために、大学生活の自由度が制限される中、就活で自分をアピールするガクチカがなく、就活生が困っているという問題である。

ガクチカ問題は、全国紙各紙でも報じられた。関連した記事は一通りチェックしたが、パターンはほぼ一緒で、戸惑う学生の声を中心にし、企業の人事や、大学のキャリアセンターの試行錯誤が伝えられる。このような報道が就活生の不安をさらに高める。


■「ガクチカの父」として猛反省していること

このガクチカについて、私は複雑な思いを抱いている。実は、この言葉を日本で初めて書籍に掲載したのはどうやら、私なのだ。2010年のことだった。私は「意識高い系」をタイトルにした本を初めて世に出した者でもある。ゆえに、若者を苦しめる言葉を広げた者として悪者扱いされることもある。ともに、私が生み出した言葉ではなく、広めた言葉なのだが。

正直なところ、とばっちり、流れ弾だなとも思いつつも、とはいえ反省すべき点もある。それは、このガクチカという言葉が就活生、企業、大学関係者などに誤解を与えつつ広まってしまったことにより、混乱を招いている。これは、問題だ。

あたかも、ガクチカとして自信をもって語れることがなければ内定が取れないのではないかと就活生を焦らせたのではないか。ガクチカ=「わたしがなしとげたさいこうのせいこうたいけん」なのだと、誤解させてしまったのではないか(つまり、“すごい体験”でなければアピールできないと思わせてしまったのではないか)。

企業の面接官も、わかっていない人に限って、派手なガクチカを過大に評価してしまう。しかも、その流れにより、大学もエントリーシートの添削などで学生の体験を誇張してしまう。さらには、大学側が就活でアピールできるような機会まで用意してしまう……。

もともと、ガクチカは本人の価値観、行動特性、思考回路、学ぶ姿勢、勝ちパターンなどを読み解くための「手段」だった。「世界一周」「サークル立ち上げ」「学園祭の模擬店で大成功」などという話を期待しているわけではない。目立たなくても地道な取り組みが評価されることもある。しかし、ガクチカが学生、企業双方で過度に「目的化」してしまったのが、現代の就活なのである。


■学生にガクチカを問うのは、コロナ前から酷だった

もっとも、学生がガクチカに困りだしたのは、新型コロナウイルスショックのせいなのだろうか? よくある「新型コロナウイルスショックの影響で、大学生活が2019年までよりも制限され、ガクチカで学生が困っている」という言説は、本当だろうか? 疑ってかからなくてはならない。

私の主張を先に書こう。ガクチカに困ると言われたこの世代は、過去最高に内定率が高い。また、ガクチカはコロナ前から悩みの種だったのだ。

就職情報会社各社が発表した、2022年6月時点での内定率は過去最高だ。たとえば、リクルート就職みらい研究所が発表している就職プロセス調査によると、6月1日時点の内定率は73.1%となっており、前年同時期比4.6ポイントアップ、6月選考解禁となった2017年卒以降最も高くなった。

これはモニター調査であり、実態よりも高くなりがちではある。就職情報会社各社の渉外担当者が大学に対して「実際はこんなに高くありません」と言うほどだ。また、最終的な数字を見なければ結果の先食いにもなる。ガクチカに自信がある学生が先に内定しているともみることもできるだろう。とはいえ、ガクチカに困っているはずの学生たちに、これだけ内定が出ている点に注目するべきだろう。

学生は新型コロナウイルスショック前からガクチカに悩んでいた。無理もない。今の学生はお金も時間もない。奨学金やアルバイトに依存しなければ、大学生活が回らない。自宅から通わざるを得ず、遠距離通学する学生もいる。筆者は千葉県市川市の大学に勤務しているが、茨城県や、千葉県の房総半島から通う学生もおり、通学時間が片道2時間以上かかる学生もいる。よく若者の○○ばなれというが、その原因はお金と時間の若者離れだ。

ゆえに、就活で跋扈(ばっこ)するのが普段のアルバイト体験を劇的に語ろうとする学生たちだ。面接では「居酒屋でのアルバイトで、コミュニケーション能力を磨きました。笑顔を心がけ、お客様にもいつも、笑顔で帰ってもらいました。この力を営業の仕事で生かしたいと思います」という学生がよく出現する。面接官からすると「またか」とウンザリするような、お決まりの自己PRだ。お客さんが笑顔で帰ったのは生ビールがおいしかったからではないかと言いたくなる。就活ノウハウでは「だから、アルバイトネタは、差別化できないから話すな」というものが伝授される。

この問題はこじれている。アドバイスするとしたら、元面接官視点では、「もっと工夫してアピールしろ」と言いたくなる。同じ居酒屋バイトでも、チームワークや売り上げアップなどアピールできるポイントはあるだろう。大学教員視点では、勉強の話をしてほしいと悲しんだりする。

ただ、学生の状況を考えると、激しく同情する。学生生活において、時間もお金も余裕がない。アルバイトをしなければ学生生活が回らない。居酒屋でのアルバイトは人手不足で彼ら彼女たちを求めている。モチベーションアップ施策にも手厚く取り組んでいる。飲食店でのアルバイトは、彼ら彼女なりに、精いっぱい努力した、「学生時代に力を入れたこと」なのだ。

「コミュニケーション能力」を「アピールさせている」のは誰なのか? 経団連が毎年、発表している新卒採用で重視する点として、「コミュニケーション能力」が十数年にわたり、1位となっている。

「居酒屋でアルバイトし、コミュニケーション能力を身につけた」という「量産型就活生」が、納得のいく内定に至ることができるのかどうかという問題はさておき、彼ら彼女たちはそう言わざるを得ないし、大人たちにそう言わされているのだと解釈したい。これも彼ら彼女たちなりの精いっぱいの「ガクチカ」なのだ。


■供給されるガクチカ、誇張、装飾されるガクチカ

学生たちがエントリーシートに書いてきた「ガクチカ」をそのまま信用していいのか。ここでも立ち止まって考えたい。「ガクチカ」は本当に学生が書いたものなのか。この「ガクチカ」は、学生が自ら頑張ったものだろうか? 大学が用意した機会に乗っただけではないか。

そのガクチカが問われる場といえば、エントリーシートだ。すでに想像がついた人もいることだろう。そう、このエントリーシートもまた必ずしも、学生が自ら1人で書ききったものとは限らない。キャリアセンターなどで、教職員が添削をしている。話題の棚卸し、意味づけ、表現の工夫などは、大学教職員のアドバイスのもと、学生はエントリーシートを書き上げる。もちろん本人がみずからは気づかない良さを引き出している面はあると思う。ただ、「盛り」「盛られ」のエントリーシート、ガクチカが製造されるのも現実である。

大学が用意したプログラムが、ガクチカのネタに使われることもある。大学は企業や地域と連携した取り組みなどを行っている。よく、新聞の教育面を読むと、各大学のユニークな取り組みが紹介される。これらは学生が自ら発案したものではない。もちろん、学生に何から何までゼロから立ち上げることを期待するのは酷だと言えよう。ただ、いかにも「私はこんなユニークな取り組みをした」という「ガクチカ」は実は、大学や教員がお膳立てした可能性があることを指摘しておきたい。

一方で私自身は大学教員だ。だからといって保身に走るわけではないが、これらの取り組みにも意味がある。別に大学は「ガクチカ」のためだけに、これらの企業や地域と連携したプログラム、ユニークなプロジェクトを立ち上げているわけではない。あくまで学びの機会である。


■学生たちは機会があれば、よく学び、成長する

文部科学省もアクティブ・ラーニングやPBL(Project Based Learning ※PはProblemとすることもある〕を推奨している。これらのユニークプログラムは、文科省の意向や産業界や地域の要請を受けたものでもある。お金も時間もない大学生に、何か貴重な体験をしてもらいたいという思いもある。

私自身、このような企業や地域とコラボしたプログラムを担当しているが、学生たちはよく学び、成長する。しょせん、単位取得のためにやらされたことだとしても、それが学生にとっての成長、変化の機会になればよいと私は考えている。そもそも、お金も時間もない中、このような機会でも作らなければ、大学生活はますます単位取得と、アルバイトと就活で終わってしまう。

私も学生から相談を受けエントリーシートを添削することがある。あくまで言葉づかいの間違いを直したり、学生の考えを整理したり、彼ら彼女たちが体験したことについて、解釈する視点を提供するためのものだ。最終的には、学生に仕上げてもらう。このやりとりは、添削というよりも、面談に近い。エントリーシートというものを媒介に、何を大切にして大学生活をおくってきたのか、棚卸しと意味づけを行うやりとりだ。

ここからは私自身の意見を交えて展開したい。「ガクチカ」というものに事実上、大学も侵食されていることについて警鐘を乱打したい。大学は何のためのものなのか。


■若者に旧来の若者らしさを求めるな

この手の話をするたびに「いや、大学は自分でやりたいことを探す場所だろう」「ガクチカとして誇れるものがないのは自己責任」などという話が飛び出したりする。中には「俺は、苦学生だったが、アルバイトで学費をすべて払い、サークルの立ち上げまでして、充実した大学生活をおくったぞ」などという、マウンティング、ドヤリングが始まったりする。さらには「どうせ学生は、遊んでばかり」というような学生批判まで始まったりする。

いいかげんにしてほしい。どれも現実離れしている意見である。構造的に、時間もお金もないことが課題となる中、それを強いることは脅迫でしかない。自分の体験の一般化は、持論であって、理論ではない。さらに、自分の時代の、しかもドラマや漫画などで妄想が拡大され美化された大学生活を前提に語られても意味はない。

これは言わば、妄想ともいえる「若者らしさ」の押し付けでしかない。自分たちが思い描く若者像を、過剰なまでに期待していないか。

そもそも、ガクチカなるものを今の大学生に期待することがいかにエゴであるか、確認しておきたい。大人たちには学生が、自分たちが理想とする学生生活を送れるように応援する気持ちを持ってもらいたいものだ。学生像を押し付けてはいけない。

企業の面接官には、学生1人1人をしっかり見てもらいたい。コロナ時代の彼ら彼女たちは不安な生活を乗り切った。よく勉強した。これこそが、ガクチカではないか。「学生時代に力を入れたこと」としてのガクチカを期待するよりも、「学生生活に力を入れられる」ような環境をつくらねばならない。これはガクチカなる言葉を広めた者としての懺悔(ざんげ)と自己批判と提言である。

【常見 陽平 : 千葉商科大学 准教授、働き方評論家】