日本電信電話公社や国鉄などの民営化を行った中曽根康弘(なかそね・やすひろ)元首相が29日午前7時22分、老衰のため都内の病院で死去した。101歳だった。

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中曽根元首相は、首相を退任した翌年の1988年(昭63)6月28日に「中曽根康弘世界平和研究所」を設立し、会長として主宰した。

「国際社会が直面する重要課題について、自由な立場から深く考察し、創造的かつ建設的な提言を内外に広く発信する、開かれた政策研究提言機関」(公式HPより)を目指し、設立の際は後継として自ら指名した、竹下登内閣の閣議で了解まで得た。その結果、研究所は総理府、防衛庁、経済企画庁、外務省、大蔵省及び通商産業省の6省庁を主務官庁とする公益財団法人して発足できた。

中曽根康弘世界平和研究所に2010年(平22)から16年3月まで研究助手、研究員として在籍した、武蔵野学院大国際コミュニケーション学部の林大輔准教授(44)は、退所時に中曽根氏から直筆の色紙と、10年の著書「わたしがリーダーシップについて語るなら」を贈られた。林氏は「中曽根会長は所員が退所する際、その時、思っているコメントを1人1人に直筆で書くのが恒例でした」と振り返った。

林氏が退所した際は、同氏を含め4人が退所した。中曽根氏が4人に贈った色紙には「万物生光輝」と書かれていた。林氏によると禅の言葉で「この世のすべてのものは自ら光り輝いている。それは一夜のうちに醒めてしまうような錯覚の類ではない。自分にとってプラスなものやマイナスのもの、都合の良いものや悪いもの全てを含めて光り輝くものなのだ」という意味だったという。

研究員には総務省、外務省などの中央省庁、日銀、NTTや商社など、官民から若手の有為な人材が集まった。林氏は「(設立時に)閣議決定まで持っていった裏には、省庁から若手の役人を出向させ、政府から離れた自由な立場で政策研究、提言をして欲しいという、中曽根会長の考えがあったのでは」と語った。

林氏が在籍時、最も印象に残っているのは、2011年3月11日に東日本大震災が発生した際の、中曽根氏の立ち居振る舞いだ。当日は東京・虎ノ門の研究所で幹部会議があり、中曽根氏は会議に出ていたという。発生時には研究所も強烈な揺れを何度も感じて事務局はパニック状態だったが、中曽根氏は動じず「続けたまえ」と言って平然と会議をこなしたという。

中曽根氏は会議後、夕方まで研究所の会長室で報道各社の取材に応じた。全てのスケジュールを終了後、6階の研究所を後にしようとした段階で、建物のエレベーターは動いていなかったという。当時、92歳だった中曽根氏は、林氏から「どうされますか? 誰か若い者におぶらせますか?」と聞かれると「自分の足で下りる」と言って、足が不自由ながら自分の足で階段を長い時間をかけて下りたという。林氏ともう1人の研究員は、ケガがあっては大変だということで、いつでも受け止めることができるよう中曽根氏の前に並び、後ろ向きになって階段を下りたという。

中曽根氏は、中曽根康弘世界平和研究所の関係者の前でも、憲法改正について強い意欲を語っていたという。憲法記念日の5月3日には集会に参加していたが、3年前から体調を崩し、出席しなくなったという。林氏が中曽根氏に会ったのも、退所のあいさつをした16年3月末が最後だった。林氏は「中曽根会長にとって『中曽根康弘世界平和研究所』は、議員を辞められた後も社会貢献をする上での、ライフワークだったと思います」と語った。【村上幸将】