東日本大震災後、専業主婦だった女性が町の復興のため、津波被害にあった夫が経営する会社の立て直しに力を尽くした。宮城県女川町の水産加工業「ワイケイ水産」取締役の木村悦子さん(58)。17年に夫をがんで亡くしたが、4人の子供と夫が大切にしていた従業員の笑顔を守るため、奮闘の日々が続く。
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東日本大震災後、女川漁港近くに新築された「ワイケイ水産」。銀色の看板がまぶしく光る。従業員は約50人。12年から人気スープ店「スープストックトーキョー」に秋の定番メニューに使用される女川産サンマのつみれを卸している。
宮城県石巻市出身。31歳で夫の喜昭さん(享年57)と結婚。1男3女をもうけた。繁忙期はパートで仕事を手伝ったが、基本的に専業主婦だった。震災時、自宅は津波被害を免れたが、工場3カ所のうち2カ所が津波で流失。「何もなくなった町に、人もいなくなってしまう。働く場を提供しなくては」と考えた。がれきや木材が散乱する町を歩きながら奮起を誓った。「こんなことで子供の将来を変えてなるものか」。
会社の被害総額は約18億円。それでも会社を続けると決断した喜昭さんから、子供を連れて東京への避難を勧められたが「私も手伝う」と断った。初仕事はがれきを片付ける従業員用の弁当作り。顧客データは津波で流失したが、がれきの下からビニールファイル入りの顧客800人分の名簿が見つかった。自宅に持ち帰り、泥だらけの名簿を丁寧に洗って乾かした。
震災半年後の11年9月には事業を一部再開した。新工場の図面が出来上がった13年秋。喜昭さんが前立腺がんと診断された。がんが骨に転移し、ステージ3に近い状態だった。「一瞬にして津波に流されて亡くなった人に比べたら、自分には準備する時間がある」。喜昭さんの言葉に「そうだね」としか言えなかった。
子供4人に病状を打ち明けたが、「不安を持たせたくない」という喜昭さんの希望で、従業員や同居する義理の両親には隠し続けた。「隠していたから頑張れたのかもしれない。みんな分かってくれてると思ったら、弱音を吐いたかもしれない。泣いている暇がなかった。前に進むしかなかった」。会社経営、夫の看病、子育てと奮闘し続けた。
喜昭さんが亡くなったのは17年4月。病床でも、いつも従業員を「笑顔で働いているか」と気に掛けていた。従業員や研修生が悩んでいれば寄り添い、ひと息つけるようにいつもおやつを用意する。自分なりに夫の姿勢を引き継いでいる。
19年12月の国立競技場オープニングイベントで、「スープストック-」が配布したスープに女川産サンマのつみれを提供。会場に駆け付け、初めてオリンピック(五輪)を身近に感じた。東京五輪は復興五輪をうたう。「復興を裏打ちするようなものがないと、言葉だけのような気がしてしまう。パフォーマンスとしての復興五輪にしてほしくない」と話した。【近藤由美子】
◆女川町の震災被害状況 女川町HPによると、一部を除く町内の大半の市街地は津波で被災。特に女川港に面する工業地域、女川駅などの町中心部は津波で壊滅的な被害を受けた。津波の高さは最大で14・8メートル。浸水区域は3・2平方キロメートル。15年3月現在、死者は574人。一般家屋の被害総数は住宅総数の89・2%にあたる3934棟で、ほとんどの建物が全半壊の被害を受けた。震災直後は人口約1万のうち、5720人が避難した。