2011年3月11日、東日本大震災が発生した。マグニチュード(M)9・0を観測した最大震度7の地震、広範囲に及ぶ大津波、福島第1原発事故、多くの死者、行方不明者、家屋などの倒壊。今なお日常を取り戻すことができずに苦しんでいる人も多い。日刊スポーツは連載企画「忘れない3・11 あれから10年」で、発生からまもなく10年となる被災地の今を伝えます。第1回は、12年選抜高校野球大会に21世紀枠で出場し、選手宣誓を行った石巻工(宮城県)野球部元主将の阿部翔人さん(26)の現在。地元だけでなく全国に言葉とプレーで活力を与えた球児は、今春からの宮城県高校教員への採用が正式に決まった。

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阿部さんは震災から10年の今、再び困難を乗り越えて結果を出した。「教員採用試験に5回目で合格し、4月からは正式に保健体育の教員として新しいスタートを切ることになりました」。石巻工で野球部監督経験もある父克彦さん(55=現宮城水産野球部監督)の背中を追って抱いてきた教員への夢もかなえた。「震災の1年後に甲子園に出られるとは思っていなかったし、10年後に教員として働くことも想像はできなかった」。次への1歩を、再び踏み出す。

日体大卒業後の17年4月、石巻高に保健体育の非常勤講師として赴任し、18年からは野球部のコーチに就任。「生徒たちは高校生活ですごく成長する。関わることは責任も大きく、やりがいのあるものと実感させていただいた。自分には震災で経験したこと、野球で経験したことを伝える使命がある」。だからこそ、地元の宮城県で教員になることにこだわり、絶対に諦めなかった。昨年10月23日、ネットの合格発表で4ケタの自分の番号を確認した瞬間は、未来が開けた12年センバツ出場決定の喜びにも似ていた。

石巻市は、死者、行方不明者3900人超。阿部さんも津波で学校に取り残された。約1メートル40センチの汚水に囲まれた校舎内には約800人が避難。配給された飲料水は1人1日50ミリリットルほど。段ボールをかじって空腹を満たしたことさえあった。机を並べて道路まで脱出できたのは2日後。阿部さんの自宅も約2メートル浸水した。「最初は必死で、野球をやりたいとか考えることもなかった」。道具もすべて流されたグラウンドのヘドロやがれきを取り除く作業から開始。バット2本とボール5個での練習再開は40日後だった。約1年後、仲間と考えた力強い選手宣誓は、聖地のスタンド、テレビやラジオで聞いた国民から拍手を浴びた。

宣誓文の中に、今でも大切にしている一節がある。『苦難を乗り越えることができれば、その先に必ず大きな幸せが待っている』。震災を乗り越え、甲子園で九州王者の神村学園(鹿児島)に一挙5得点で、一時逆転。負けはしたが「振り返れば意義ある大会にできた」。最高の幸せだった。

大学進学後は選手宣誓の男として注目されることが、重圧や苦悩にも変わった。右肘手術などのケガも続き、高いレベルから取り残される心境にもなり、周囲の目が気になった。その時にも思い出した宣誓文。「練習できないことも試合に出られないこともつらかった。周りの期待ではなく、自分の期待に応えようと思った。自分を見つめ直す時期にもなったし、いろいろな立場の気持ちをくめるようになった。今の指導にも役立っている」。公式戦出場はなかったが、相手に応じた指導者としての幅広い考え方につなげることができたことも、また1つの幸せだ。

この1年は、コロナ禍で日常が奪われた。目標を失う生徒たちへの声がけにも、震災の経験は生きた。「一緒にはできないですが、目の前の物が一気に無くなってしまう感覚は寄り添ってあげられると思った。とにかくやれることをひとつずつやろうという思いは、伝えられたと思う。『苦難を-』は、コロナに直面した今の子どもたちにも伝えたい言葉です」。センバツの選手宣誓文は、前を向くためのパワーワードとして生き続けている。

石巻に戻って5年目に入る。震災前の街並みと景色は変わったが、復興へ進んでいる実感もある。ブランド魚の金華さばなどで有名な水産業も回復しつつあり、新たな商業施設や医療施設も充実。ピーク時は約1万3000軒あった仮設住宅や民間賃貸住宅などへの入居者はいなくなった。地域によって差はあるものの「最大の被災都市から世界の復興モデル都市」をテーマに、県内第2の都市として再生を始めている。

街の復活に比例して、野球でも盛り上げる一翼を担う。「生徒が苦労や困難から逃げずに努力する環境やきっかけをつくり、人間形成ができる教員になりたい。私が小さい頃、石巻は野球も盛んだった。それも復活させるには野球を継続する魅力を示すこと。次の夢は、結果で言えば甲子園出場です」。監督として聖地に帰ることを誓った。【鎌田直秀】