平成のプロ野球を考える時、捕手の存在がより注目され、優秀な捕手がいるチームがクローズアップされる時代に映った。ヤクルトの古田敦也は1990年代を代表する捕手として、数々の名場面に登場した。

戦術への理解力と配球術。それは多数取り上げられてきた。捕手はグラウンドでの指揮官。常に判断を求められた。優秀な捕手ゆえのつらさを具体的に知ると、なかなかの修羅場だと理解できた。

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ヤクルト担当を離れる時、古田が面白いエピソードを話していた。野村克也監督との、試合中のバチバチのガン付け合戦(もしくはガン付け外し合戦)だ。90年代前半は、野村ヤクルトがプロ野球界をけん引し、彗星(すいせい)のごとく古田が登場した。野村ID野球を体現する要として、巨人、中日の強力打線とマスクごしに戦った。

試合後はもちろん、試合中も野村監督から配球の根拠を問われた。結果論として、厳しく根拠を追及されることも多々あり、考える捕手・古田の脳は沸騰。心理を冷静に保つためにメンタル面もフル回転だった。

中でもゲーム終盤のピンチで、古田と野村監督の無言のせめぎ合いはすさまじかった。具体的な試合状況は言わなかったが、古田は接戦の終盤、走者を得点圏に置いた場面で、配球に困った時は、ベンチの野村監督を見た。野村監督はデータの資料を手に、サインで配球の指示を出した。

しかし、どうにもこうにも判断がつかない、とびきりの大ピンチでは、2人の関係性はもはや戦いだった。当時の古田はこういう表現をしていた。「これは難しい…どの球種を投げていいか、本当に判断に迷った時にベンチを向くと、その瞬間、監督は資料に目を落とす。でも、こっちも必死だった」。そのまま自己判断して打たれたら、たまらない。古田はなんとか視線を合わせなければならなかった。

そこで古田が考えたのは、実に巧妙かつ、底抜けに笑えるテクニックだった。神宮球場が多かったから、古田は一塁側ベンチを「サッ」と向く。その気配を察して野村監督は「パッ」と資料に目を落とす。視線が合わない。しばし間をおくが、監督はかたくなに目線を上げない。仕方なく、古田はピッチャーへ向き直る…と思わせて、超クイックで、それこそ伊藤智仁の光速スライダーばりの光速首振りで野村監督へ「ヒュッ」と向き直る。

すると、古田があきらめて前を向いた頃かなあ、と予想していた野村監督が資料から目を上げて古田を見ようとしたその瞬間、古田の光速首振りに、野村監督は慌てて、これまた音速で「スッ」とうつむく。

まったくもって、吉本新喜劇のような「ネタ」だが、これが激しいペナントレースの、それも白熱した終盤に古田-野村監督の間で繰り広げられていたというのだから。古田からすればガン付けの戦術で、野村監督からすれば視線外しの極意と言うべきか。

ついでに書くと、その時はついに野村監督は視線を合わせてくれず、古田は「それなら自分の考えで」とサインを出して勝負した、という話だった。

それが成功したのか、失敗して野村監督からまたブツブツ言われたかは、失礼ながら忘れてしまった。結果はもはやどうでもよくて、古田は相手打者と戦い、味方投手の心理を掌握しつつ、守備陣形を頭に入れながら、光速首振りと、音速うつむきの戦いもしていたということが、最高に興味深かった。

近い将来、どこかのチームで古田監督が資料に目をやり、捕手がうらめしそうにその姿をにらんでいる、そんなシーンが見られたら楽しい。「令和」も、捕手にとっててんてこ舞いの時代になってほしい。(敬称略)【井上真】