西本にとって生涯忘れられない練習がある。2年生の12月のある土曜日。雨でグラウンドが使えなかった。そういう時、決まって行われるのが「ロード」と呼ばれた長距離走。

西本 松山から奥道後あたりまで2時間ぐらい走るんです。2列に並んでひたすら走るだけ。

ただその日に限って監督の一色俊作(故人)が告げた場所はいつもと違った。

「三坂峠」。

西本 3時間もあれば帰ってこられると思っていました。途中、乗松(優二=内野手)が他校の同級生と会って「今日は早く終わるからマージャンでもしようや」と話していたくらい。

しかし、三坂峠はとんでもなく遠い場所だった。参加したのは西本ら2年生と1年生の一部の20人。運が悪いことに三坂峠方面に自宅があった1年生部員はその日欠席。土地勘のある者が誰もいなかった。

8キロほど走ったところでトンネルが見えた。マージャンを計画していた乗松は油断していた。

乗松 トンネルを抜けた先が頂上だろうと思っていました。ところがいつまでたっても着かない。

実は三坂峠までは松山市の中心部から25キロもあった。標高720メートル。例えるなら箱根駅伝の5区、山登りのようなコースだった。

西本 やっと三坂峠に到着したら雪が降っていて汗が凍っていましたね。

10分の休憩後、今度は学校目指して山を下った。

乗松 途中、近道しようと脇道へ。木に2つほどミカンが残っていた。それをみんなで分け合って食べました。トンネルにはつららが下がっていて、それも折って水代わりにしました。

往路で1人、1年生が体調悪化でリタイア。復路、残り3キロという地点で乗松が意識を失って倒れた。

西本 昼の1時に学校を出て戻ってきたのは夜の7時を回っていました。

往復50キロ、6時間のロードを走ったのは松山商野球部の長い歴史の中でも、西本たちだけだった。

これには後日談がある。当初は監督の一色が自動車免許を取りたてだったことで、長距離を伴走したかったという説が有力だった。しかし真相は違った。

乗松 三沢との引き分け再試合を制して優勝した代は松山空港(往復約30キロ)までロードをしたそうです。それをメンバーが優勝のエピソードとしてよく話していたんです。一色さんはそれ以上の「伝説」を作りたかったそうなんです。

伝説の「三坂峠」を乗り越え、西本にとって最後の1年が始まった。(敬称略=つづく)【福田豊】

(2017年10月20日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)