米国フロリダ州で開催された女子野球W杯が日本の大会6連覇で幕を閉じた。前人未到の偉業に導いたのが、代表初の女性指揮官となった橘田恵監督(35)だ。「苦しい戦いが続いたが、選手がよく耐えて最後に一つになって戦ってくれた。彼女たちは十分力を持っているので、どうやって持ち味を引き出すかというのが私の課題であり、チームの主題でもあった」。勝って当たり前の重圧をはね返し、笑顔を見せた。

野球人口の減少がクローズアップされているが、女子に限れば、チーム数と競技人口は右肩上がりだ。プロ野球リーグが09年に発足。アマ側でも実業団チームが増えた。競技を続けられる環境が整備されたことが大きい。これに伴い、私立の高校でも女子野球部を創部する動きが目立っている。発展を続ける女子野球界だが、もちろん先人の苦労があってのことだ。

橘田監督も苦労人の1人である。兵庫・小野高では硬式野球部に女子でただ1人所属した。しかし当時は部員として認められず、練習生扱い。打撃や守備練習は危険ということで参加できなかった。グラウンドの隅にある壁に向かって、1人で黙々とボールを投げた。「ひたすら、壁と野球をしていましたね」。週末は中学の硬式野球チームに入れてもらい、実戦感覚を養った。「しんどい」「もうやめよう」。そう思ったことは何度もある。それでも野球部を辞めなかった。「自分は逃げる人間じゃない。区切りまでがんばりたい」。高校では試合に出ることは不可能だったが、3年間、壁当て中心の練習を続けた。

仙台大に進んでも、硬式野球部の門をたたいた。ここでも女子部員は1人だけ。それでも高校と違い、女子が試合に出られないという規定はなかった。「選手としてやっていいよ、と言ってもらえた。同じ練習に入れてもらえただけでも、うれしかった」。1年生の時に、チャンスが巡ってくる。仙台6大学の秋季新人戦でベンチ入り。「9番二塁」で初の試合出場を果たす。試合開始と同時に、いきなり打球が飛んできた。無事に処理すると、1打席目でライト前ヒットを放った。2打席目は送りバント。「私はヤマを張るタイプ。外角の球を思い切り振ったら、ライト前に打てた。夢心地だった」。同級生の一塁ランナーコーチが「ようやったな」と泣いていた。野球への情熱を周囲が認めていた。

高校、大学の7年間で試合の打席に立てたのは、たったの2打席だった。「誰にも抜かれない記録だと思う。だいぶ、野球が好きですよね」と橘田監督は笑った。大学卒業後は、オーストラリアの女子野球リーグに参加。現役引退後は、履正社医療スポーツ専門学校の女子硬式野球部監督などで指導者としてのキャリアを積んだ。高校、大学の日々がベースにある。「1打席の大切さを感じる部分がある。補欠の気持ちもよく分かるんです」。自らの苦労が血と肉になっている。初の女性指揮官となってからは常勝の重圧と正面から向き合った。壁当ての少女が、世界一の指揮官へ。人生の先に何が待っているのか、誰にも分からない。【田口真一郎】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「野球手帳」)