さようなら平成-。あと5日で平成という時代が幕を閉じる。日刊スポーツでは、「さよなら平成」と題して、スポーツ、文化などの各分野で、北海道の平成を振り返ります。高校野球の北海を率いる平川敦監督(48)は投手として平成元年(89年)夏の甲子園を経験し、コーチ、監督として平成を歩んできた。そこには、駒大苫小牧で甲子園2連覇を達成した同学年の香田誉士史監督(47=現西部ガス監督)の存在があった。

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挫折から始まった平成だった。平成元年、北海の投手だった平川監督は甲子園のマウンドに立つことなく、高校野球を終えた。登板は0-1で敗れた春季札幌地区1回戦、札幌平岸戦が最後。夏は背番号13で出番はなかった。北海学園大に進学すると、当時の大西昌美監督に請われ学生コーチに就任。94年夏の甲子園で8強に進出したが、後に駒大苫小牧監督になる香田氏がコーチを務める佐賀商に準決勝進出を阻まれた。

98年に北海監督に就任しても、その「香田の壁」に苦しんだ。99年夏は準決勝で香田監督率いる駒大苫小牧を6-5で下し甲子園に出場したが、2年後の01年から立場は変わった。駒大苫小牧が13-3で北海を下し、香田駒苫が初の甲子園出場を果たした。平川監督は「一生懸命だった香田が甲子園に行けて良かったのかなと。悔しさは、あまり感じなかった。この考えが甘かった」と振り返る。

00年から8年間、北海は春夏通じ甲子園から遠ざかる。その間、駒大苫小牧は04、05年夏の甲子園連覇。北海道の高校野球は一変した。伝統校の監督として結果を出せず「何度も辞めようかと思ったが大西先生から“辞めたら負けだ”と言われ、何を言われても我慢するようにした」と振り返る。駒大苫小牧が優勝した05年秋の明治神宮大会は、香田監督に頼み込み、同じ宿に泊まり一緒にバスで移動して練習を見学した。本気で「日本一」を掲げ、がむしゃらに選手と向き合う香田監督の姿勢に「指導する人間が、そこまでの気持ちにならないとチームも強くなれない」と感じた。

08年夏、北海は9年ぶりに甲子園出場。16年に準優勝、17年には3年連続の甲子園出場に導いた。「準優勝は無欲でつかんだもの。令和では、香田みたいに目指して日本一になってみたい。そう思えるようになった。今、指導者を続けているのは本当に、香田の存在が大きい」。平成で味わった苦い経験や好敵手の存在が、新時代への糧になっている。【永野高輔】

◆平成の北海道高校野球 平成初の甲子園となった春は、東海大四と苫小牧工が出場し、ともに2回戦敗退。93年春は知内が町立校初の甲子園出場を果たし、駒大岩見沢が3勝で4強に進出した。04年夏、駒大苫小牧が決勝で済美(愛媛)を破り、春夏通じ北海道勢初優勝。05年で連覇を達成すると、06年も斎藤佑樹の早実に決勝再試合で敗れたが準優勝した。15年春は東海大四が道勢52年ぶりのセンバツ準優勝、16年夏には北海が準優勝した。