いわきの高校野球に新たな因縁が生まれた。17年夏の福島大会で準優勝するなど、強豪公立校として知られるいわき光洋の新監督に、白河から紺野勇樹監督(38)が就任した。

同校の前監督で、新型コロナウイルス感染拡大防止のため21世紀枠でのセンバツ出場が幻となった磐城・渡辺純新監督(38)とは、磐城野球部の同期。磐城前校長の阿部武彦氏(60)も第4顧問としてチームに加わり、悲願の甲子園初出場に突き進む。

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作戦やサインはすべて、選手の自主性に任せた。新チーム初の紅白戦を、紺野監督はじっくり目で追いかけていた。試合後は選手を集め「すごい楽しみだ。十分甲子園を狙えるレベルにある。でもファウルでOKとか言っているようじゃダメだ。目の前の敵と戦いつつ、ハードルを甲子園に上げよう」と本音をぶつけ、意識改革を求めた。「監督が邪魔をして選手を殺してはいけない。でも楽しいだけでは遊び、厳しいだけでは殺伐。そこに心の温かさを加えたい」と自主性を尊重しながら新しい教え子たちと接していく。

因縁が重なりあった。センバツ中止決定後、磐城・木村保前監督(49)が福島商に異動し県高野連事務局員になった。後任にはいわき光洋の渡辺前監督が就いた。磐城時代は渡辺監督がエースで、紺野監督が4番。監督になってからも対外試合解禁日に試合を行う仲だった。渡辺前監督からは辞令翌日の3月25日、メールで「俺がやってきたことに、自分のやり方を結びつけていけばうまくいくよ」とバトンを託された。

再会もあった。甲子園を有終の美に定年となるはずだった磐城の阿部前校長が、国語科講師としていわき光洋に赴任した。高校時代の担任で野球部長。高野連担当の顧問を依頼すると快諾してくれた。阿部氏は「中止はショックだったけど、まだまだやれってことでしょう。何でもやりますよ。会場の駐車場係だって」と教え子をサポートしながら夢の続きを見ることになった。

部員の大半は17年夏、聖光学院にサヨナラ負けしたチームを見て入学した。昨秋の支部大会で0-2と惜敗したライバル磐城の甲子園決定に思いは複雑だった。鈴木拓真主将(3年)、エース山野純輝投手(3年)らは、いわき市の中学選抜「いわき松風クラブ」で磐城・岩間涼星主将(3年)らと全国大会に出場。鈴木主将は「悔しさもあったけど甲子園でのプレーも見たかった。中止になってしまい、夏も本気で甲子園を目指してくると思う。負けないよう頑張りたい」と無念さを共有しながら決意を新たにした。エースとして、岩間とバッテリーを組んだ山野は「夏の決勝で勝って成長した姿を見せたい」と渡辺前監督への恩返しも誓った。

いくつもの縁が重なって、また故郷に戻ってきた。紺野監督は「いわきから甲子園は悲願。決勝でウチの子たちが恩師を倒して甲子園に行くのが理想。僕も親友である純(渡辺監督)には負けたくないですし」。いわきプライドを胸に、新たな一歩を踏み出す。【野上伸悟】

○…177センチのエース右腕山野は、冬の走り込みと食トレの成果で体重が10キロ増え73キロに。「直球で押せるようになった」と球威アップを実感する。2年生右腕小松海流稀(みさき)は打っても昨秋の磐城戦で沖から三塁打を放つなど、長打力が魅力。ともに最速は130キロ台後半で紺野監督も「2人とも県内でも上位に入ってくる投手」と期待を寄せる。

◆紺野勇樹(こんの・ゆうき)1981年(昭56)9月16日生まれ、福島県いわき市出身。長倉小では常磐軟式野球スポーツ少年団でプレー。湯本一中2年時の95年夏、甲子園に出場した磐城に憧れ進学。4番二塁手として活躍も3年夏は3回戦敗退。関甲新リーグ1部の山梨学院大では2年秋から主力に。商業科の教員免許を取得も、卒業後に山梨大で保健体育も取得。09年から富岡、13年から白河で監督を務め最高は14年夏の4強。