まだプロ野球開幕は見えませんが、日刊スポーツはひと足早く火曜日の野球企画をスタートします。第1火曜日は「矢野阪神のマネジメント考」。2年目を迎えた矢野監督のマネジメントを、85年阪神日本一の日刊スポーツトラ番で、元和泉市長の井坂善行氏(65)が取材経験、政治体験、野球経験者として多角的に斬り込みます。

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経験もないのに偉そうなことを言うようだが、プロ野球の監督ほど魅力的な仕事はない。「末は博士か大臣か」と将来を嘱望する言い伝えがあるが、プロ野球の監督はたった12人しかいない。博士や大臣よりも少なく、毎年100人ほどのプロ野球選手が誕生し、だれもが夢見る立場だろうが、マネジメント能力に加え、運も味方しないとたどり着けない「職業」である。

私が担当した球団の中で、監督としての最高勝利数を残したのは今は亡き上田利治氏である。通算1322勝は歴代7位。私の新居が完成した時は、わざわざお祝いに駆けつけていただき、私の父と木造建ての家について楽しそうに話してくれていた姿を思い出す。

そんなウエさんは、よく私に「井坂君、原稿書くのが仕事なんやから、とにかく本を読みなさい。とくに、歴史の本がいい。歴史本には人生、生き方へのヒントがいっぱいある」と教えてくれた。

しかし、20年のプロ野球は歴史に学べない状況下にある。新型コロナウイルスの感染拡大で、延期、延期の末に、いまだに開幕日すら決まらない。7日にも緊急事態が宣言され、12人の監督たちは今、一体何を思い、どう考えて勝利への方程式を組み立てようとしているのだろうか。

阪神の矢野監督も、球界では屈指の読書家だと聞く。そこから、人生、生き方へのヒントを得て、そしてまた、野球というスポーツを勝利に導く道しるべを得ていることだろう。

だが、20年の不透明な中での開幕を控え、指揮官にとって、果たして参考になるような歴史本があるか。この状況を打ち破るマネジメントをどこに求めればいいのか。3月20日の開幕に照準を合わせ、東京五輪による夏の空白期間をいかに乗り切るか。その構想は12人とも出来上がっていただろうが、歴史にも球史にもないような脅威のウイルスに襲われ、実際にプレーする選手同様、矢野監督にとっても当然、この種の不安は未経験だし、教えを乞う相手すら存在しない。

就任2年目を迎え、矢野監督は早々と日本一を宣言した。日本一になりたい、ではなく、日本一になる、と言い続けてきた。もちろん、その思いに変わりはないだろう。しかし、戦いの幕が開ける前から、見えない敵が襲ってきた。監督としてのマネジメントを考える…。まだ1勝も1敗もしていないのに、いきなり天王山を迎えたような開幕前である。

 

いつだったか、不祥事を起こした大臣が顔面のキズを隠すために大きなマスクをして記者会見をしたことがあったが、新型コロナウイルスの拡大防止対策で、マスク姿の安倍首相も見慣れてきた。サイズがやや小さいような気もするが、国会の議場でも閣議でも全員がマスク姿というのも、今の危機的状況を表している。

私が市長に就任した05年当時、公立病院の医師不足が深刻度を増しつつある時だった。朝、市役所に登庁すると、決まって市立病院の管理者が職員と待機しており、報告の内容は一人、一人、また一人と医師が退職するというものだった。

医師を確保するために東奔西走したが、こういう時のトップというのは、実に責任が重く、そして孤独感に襲われるものだ。比較対照にはならないだろうが、今の安倍首相の心中は察して余りある。

行政、役所における前例なき危機ほど、厳しいものはない。過去に類似した事例があれば、当時の対応にプラス何かを加えて対応すれば乗り切れるものだが、今回の「コロナ禍」はまさしく前例なき見えない敵との闘いである。

◆井坂善行(いさか・よしゆき)1955年(昭30)2月22日生まれ。PL学園(硬式野球部)、追手門学院大を経て、77年日刊スポーツ新聞社入社。阪急、阪神、近鉄、パ・リーグキャップ、遊軍記者を担当後、プロ野球デスク。阪神の日本一、近鉄の10・19、南海と阪急の身売りなど、在阪球団の激動期に第一線記者として活躍した。92年大阪・和泉市議選出馬のため退社。市議在任中は市議会議長、近畿市議会議長会会長などを歴任し、05年和泉市長に初当選、1期4年務めた。現在は不動産、経営コンサルタント業。PL学園硬式野球部OB会幹事。