プロ野球の大洋、ヤクルトで監督を務めた関根潤三氏が死去したことが9日、分かった。93歳。

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柔らかな物腰、ソフトな語り口のプロ野球解説者、といえば関根潤三であった。しかし、その容貌とは対照的に、1度怒らせたら無比である。めったなことでは表情を変えないが、1度だけその瞬間に立ち会うことがあった。

横浜大洋(現DeNA)監督時代の、1984年(昭59)のシーズン。開幕戦直後の試合だった。投手交代に意見の分かれる采配があり、チームは小差で敗退した。翌日、ある新聞が関根の高齢を露骨に揶揄(やゆ)する見出し「老人性」うんぬんと掲載したから激怒した。担当記者を呼びだし、たたきつけた言葉はここでは書けない。怒髪天といった趣だった。

マシュマロの中にドスを忍ばせたような違和感、その人間っぷりを、私は死ぬほど愛したが、しかしそれは秘めた強面(こわもて)ゆえ、ではない。なんとも粋な人生をうらやむからである。

東京は巣鴨で生まれ、東郷神社裏の原宿育ち。野球がうまくて日大三中(現日大三高)に進学する。同校は郊外に引っ越してしまったが、当時は赤坂にあった。夕刻、練習を終え、バットを肩に小路を歩くと、料亭街の二階座敷、芸者衆から「潤ちゃ~ん」と声が掛かったほどの二枚目である。選手時代のライフタイムを見ると、どうにも天才肌の野球選手で、投手として法政大から創設したばかりの近鉄に入団し54年に16勝、後に打者に転向しても活躍した。小柄ではあったが、足が速く長打を稼ぎ、あるシーズンは“最高長打率”を残した。そのくせ記録には無関心で、さらりと野球をこなした。

終戦間近の学生時代45年8月14日、栃木県鬼怒川温泉で芸者をあげてどんちゃん騒いだ。「あの時代、なんでそんなことが出来たのか、いまだに不思議だが、とにかく鬼怒川にいたんですよ。最後の晩餐(ばんさん)だったのかなぁ」。戦局は悪化し、いずれ戦地で果てる運命にあった。

明けて15日、宴会疲れの頭で玉音放送を聞いた。

「間が悪すぎる…」-。

あわてて東京へ向かった。宮城(皇居)前に着いたのは16日夕刻だった。「玉砂利にひれ伏したよ。国の大事に遊んでいた自分のばかさ加減。天皇陛下、申し訳ありません。人生最大の不覚だものなぁ」。深く頭(こうべ)を垂れた。

日はすでに落ち、周囲は闇に包まれた。よろよろと立ち上がって、ふと背後を振り返る。灯火管制の解除された焼け野原に、蛍のような淡い、銀座の灯がともった。新しい光だった。

「おれは歩いていったね。その光のほうへ。真っすぐ…」。背中に宮城を感じた。でも、もう振り返らなかった。

この話は野球担当時代に聞いた。いかにも関根さんらしい。

露骨を疎んじ、飄々(ひょうひょう)と投げ、打ち、走って、指揮をした。

球界は、最後の「粋人」を失ったのである。【元編集委員・石井秀一】