阪神・淡路大震災から17日で26年。多くの人々の心身に傷痕を残し、プロ野球界にも影響を及ぼした未曽有の天災だったが、そのシーズンを転機にした選手もいた。阪神で「代打の神様」として活躍した桧山進次郎氏(51=日刊スポーツ評論家)は「複雑な気持ちで戦ったあのシーズンで自信を得ました」と述懐した。

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桧山にとってプロ4年目のシーズンを迎える95年1月。大卒、高卒の違いはあってもプロ同期、同じドラフト4位入団ながら前年に前人未到の210安打を達成したオリックス・イチローに刺激を受け、気合を入れていた頃だった。

桧山 自主トレは実家のあった京都で行っていました。練習相手が必要なときに甲子園まで行く。あの朝も甲子園に行くため自宅マンション(西宮・苦楽園)に戻っていたんです。そこで「ゴオーッ」というような地鳴りで目が覚めて…。

そして強い揺れが来た。「何や? これ?」。最初は地震という言葉が頭に浮かばずパニックになった。玄関ドアを開けたが街は真っ暗。イヌの聞いたことのない妙な鳴き声が聞こえた。床に落ちた時計の電池は外れ、地震発生時刻の「5・46」で止まっていたことを今でも覚えている。

それでも2月にキャンプを迎え、予定通りにシーズンは始まった。しかし心の中は複雑な気持ちに支配されていた。

桧山 被災された方々がたくさんいる。そんなところで仕事とはいえ、野球をやってる場合なんやろうか。それどころではないのでは。自分たちが野球をしてる姿を見せていいのか、とまで思っていました。

気持ちと裏腹にその年、桧山の出番は増えた。亀山、新庄といった看板選手に故障が出て、グレン、クールボーの外国人選手も振るわなかった。終わってみれば前年の4倍近い115試合に出場。打席も9倍以上の338打席に上った。

桧山 守備要員として出ることも多かったんですけどね。守っているだけでも1、2軍で打球が違うと分かる。走塁もそうだし、ベンチで見ているだけでなく試合に出て、肌で感じるようになってきた。「1軍はこういう野球なんや」と。体力面でも自信がついてきていたし、もっと技術アップやと思いましたね。

翌96年、桧山は130試合に出場。のちに「代打の神様」と呼ばれたが03年星野阪神では4番も打つなど元々はレギュラー。そうなったきっかけは震災の95年にあった。

26年後の現在はコロナ禍の重苦しいムードが世間を、球界を包む。そんなとき桧山は「野球をやっていていいのか」と戸惑いながらプレーしたあの日々を思い出すという。

桧山 昨季はコロナで大変でしたけど、こんな時期でも野球に打ち込める環境をつくってもらえる。選手はみんなに支えられていると思います。無観客試合も経験してファンあってこそのプロ野球ということも自覚できたはず。今季も不透明ですけれど、こんなときだからこそ、周囲に支えられていることを忘れずにプレーして新たな自分を見つけてほしいと思いますね。(敬称略)【編集委員・高原寿夫】

◆桧山進次郎(ひやま・しんじろう)1969年(昭44)7月1日、京都府生まれ。平安-東洋大を経て91年ドラフト4位で阪神入り。95年から外野のレギュラーに定着し97年に自己最多の23本塁打。03、05年も主軸としてリーグ優勝に貢献。代打での14本塁打、158安打、111打点はいずれも球団最多。

◆95年の桧山 プロ4年目。レギュラー外野手の亀山が開幕早々に故障したことで出場機会が増え、右翼の定位置を獲得した。主に6番で起用されたが、7月29日の横浜戦(甲子園)でプロ初の4番に抜てきされた。球団史上第73代の4番打者で4打数1安打だった。この年は11試合で4番を務めた。80試合に先発するなど115試合に出場し、8本塁打を記録。翌96年に初めて規定打席に到達する足がかりとなった。