新型コロナウイルスに感染し闘病していたお笑いタレント、志村けんさんが死去した。70歳。ザ・ドリフターズで育った世代としては、突然のことに、ただただぼうぜんとする。

04年1月、ドリフ加入30周年の節目に志村さんをロングインタビューした。すでにお笑い界のレジェンドだったが、酔って帰宅してもコントの台本を書いている、お笑い一筋の人。「しんどいけど、ウケない恐怖に比べれば。『つまんない』って言われたら、この商売では『死ね』ってことだから」。どんな仕事にも通じるかっこいい言葉の数々が忘れられない。

強く印象に残っているのは、練り込んだコントへのこだわりとプライドだ。

テレビ局が、予算も時間もかかるコント番組を縮小し、ひな壇形式のトークバラエティーが主流になっていった時期。「ドリフ大爆笑」や「バカ殿様」は安定した視聴率を稼ぎながらも、一部で「マンネリ」と言われた。「マンネリで大いに結構。やってる方の気持ちが新しければ、笑いに古いも新しいもない。ドリフも、バカ殿も変なおじさんも、必死にネタ作ってとことんやり続けてきたわけで。みんなマンネリの域まで達してみろって」。こちらも視界も一気に開けた気がした。

父親が小学校の教頭先生。「笑いのない、陰気くさい家でねぇ」というくだりに爆笑させられた。そんな父親が「雲の上団五郎一座」の舞台中継を見て大笑いしたことに衝撃を受け、「お笑いってすごい」と進路に決めた。進学校の都立久留米高で大学へ行かなかった男子は、志村さんだけだった。

雪の中、いかりや長介さんの自宅マンション前に立ち続けた17歳の冬や、晴れてドリフの付き人となってからの超貧乏話など、ドラマチックな話をとことん面白く語る。実在の誰かからイメージを膨らませるネタづくりでは、「こーんなに曲がった腰からすごいどんぶりの出し方をする」というラーメン店のおばあちゃんを実演してくれた。子どものころと同じように笑わされ、どんな世代にもウケる志村コントの極意にクラクラした。

東村山音頭でブレークするまで、「2年間何をやってもウケなかった」のは有名な話。私が「荒井注さんのイメージが強すぎて」と当時の子どもの気持ちを語ると「あ、知ってる世代なんだ」と笑い「こんなやつ認めないぞ、というお客さんの空気をひしひしと感じるんですよ」。「辞めようと思ったことは」と聞くと、「そんな根性で入ってないですもん、この道」と即答した。

素に戻るとシャイで物静かなコメディアンは多いが、志村さんはその極めつきだった。小さな声で「どうも」と目を合わさずに着席。機嫌が悪いのかと思ったら、ちらっとこちらを見て「扮装(ふんそう)でもしていないと照れるんですよね」と急に人懐こい笑顔で和ませてくれる、気遣いの人だった。

一流の人ほどマネジャーが同席しないケースが多いが、志村さんもそう。自らの言葉で、お笑い人生と哲学をとことん面白く語る姿がかっこよかった。

私生活では大変な健康おたく。胃潰瘍を何度か体験し、大好きなお酒を少しでも健康的にするため、焼酎に黒ごま、きな粉、ウコンなどを混ぜて飲んでいた。自らしじみ汁を作り、アジも3枚におろす。「そうまでして飲みたい」と笑っていた。

当時のインタビュー記事を読み返すと、人として、プロとして、なんといい話をしてくれたのかと感謝しかない。子どものころからずっと笑わせてくれて、本当にありがとうございました。

【梅田恵子】(ニッカンスポーツ・コム/芸能記者コラム「梅ちゃんねる」)