先月5日に肺がんのため82歳で亡くなった日本を代表するアニメーション映画監督、高畑勲さんお別れの会が15日、故人が愛した東京・三鷹の森ジブリ美術館で営まれた。ともにスタジオジブリを設立した宮崎駿監督(77)やジブリの鈴木敏夫プロデューサー、作曲家久石譲氏(67)ら多くの関係者がしのんだ。宮崎監督は55年前の“運命の出会い”を懐古し、涙ながらに盟友への思いを語った。
宮崎監督は、約2000本の花で飾られ、笑みを浮かべた、10年に撮影された遺影が置かれた祭壇の横で話し始めた。
1963年、宮崎監督が東映動画に入社して間もない頃のこと。たそがれ時、雨上がりのバス停に立っていると、穏やかで賢そうな青年が声をかけてきた。「(人形劇団主宰者の)瀬川拓男さんのところに行くそうですね」。同社の先輩だった高畑さんの一言が、2人を引き合わせた。
宮崎 55年前のことなのに、なんではっきりと覚えているんだろう。あのときのパクさんの顔は、今もありありと思い出せる。
パクパクとアンパンを食べることからついたとされる、高畑さんの愛称で回想した。その後、2人はともに仕事をする間柄となる。会社に泊まり込み、作品について語り明かした夜もあった。85年にアニメ制作会社スタジオジブリを設立。前後して「風の谷のナウシカ」(84年)「天空の城ラピュタ」(86年)などのヒットアニメ作品を多数世に送り出した。当時を思い返すとおえつを漏らし、涙をぬぐった。
宮崎 僕らは仕事に満足していなかった。もっと遠くへ、もっと深く、もっと誇りを持てる仕事をしたかった。パクさんの教養は圧倒的だった。僕はありがたい人に出会えたのだとうれしかった。
号泣スピーチは約9分に及んだ。鈴木プロデューサーによると、宮崎監督は予行演習で既に泣いていたという。会社の意向に沿った映画制作を強いられたこともあった。高畑さんはそれでも諦めずに挑み続けたという。
宮崎 パクさん、僕らはあのとき精いっぱい生きたんだ。膝を折らなかったパクさんの姿勢は、僕らのものだったんだ。ありがとう、パクさん…。55年前に、あの雨上がりのバス停で声をかけてくれたパクさんのことを忘れない。
涙声で天に語りかけるように話し、締めくくった。【杉山理紗】



