映画「無頼」シリーズや、刑事ドラマ「西部警察」などで知られる俳優渡哲也(わたり・てつや)さん(本名・渡瀬道彦)が10日午後6時30分、肺炎のため亡くなったことが分かった。78歳。石原裕次郎さんにあこがれて映画界入りし日活で活躍。その後、石原プロモーション入りした。裕次郎さんが亡くなった後は同プロの社長を務め、現在は相談取締役。

日刊スポーツの紙面インタビュー連載「日曜日のヒーロー」には、1996年4月7日付掲載の第1回に登場、「男の美学」について語っていました。当時の文章そのままに振り返ります。

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NHK大河ドラマ「秀吉」の信長役がキマってます。毎週日曜付でお送りする「日曜日の“男”“女”」の第1回は、映画全盛時スターの香りを残す数少ない一人、渡哲也・石原プロ社長(54)に「男の美学」について聞きました。「そんなこと口にしたらキザになりますよ」としきりに照れ笑い。が、2度の大病を克服しながら、医者に止められているたばこを悠然と吸い「なるようにしかなりませんから」。語る節々に「美学」がにじみます。

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「秀吉」の出演話が持ち込まれたのは昨年6月ごろ。5、6冊の“信長本”を読んだ。

「津本陽さんの“下天は夢か”なんて面白かった。でも、結局、台本を読んだら、これに沿った信長像を演じることになって。秀吉(竹中直人)の母親(市原悦子)が、比叡山を焼き打ちし、仏罰におびえる息子に“おらが代わりに地獄に行ってやるだ”とか、泣かせるセリフの多い、いい台本なんです。読書はムダだったって分かりました」。

鬼のような信長が秀吉の妻おね(沢口靖子)を見る時だけ優しい目をする。めりはりの利いた演技は芸達者ぞろいのキャストの中でも一段と光る。ブラウン管で見る限り、まばたきもほとんどしない。若手俳優へのアドバイスや演出面でも渡の意向が反映されているとみている視聴者は少ないのではないだろうか。

「いや、あれは台本に信長は女には優しい、と書いてあるからそれに従ったんです。“まばたき”は映画の世界で、“しちゃいかん”と教え込まれたからです。確かに俳優として、周りの人と演出面の話もする、そういう年齢だと思うのですが、どうも。空手をやっていたでしょう。上の者が強く出ると下の者は防御ばかりに気を配るようになるんです。だから、むしろ圧迫感を与えるようなことがあってはいかん、とね。でも、そういう年齢なんですから監督に“こうではないですか”と意見を言うことはあります。といっても、最終決定権は監督。そういうものです」。

「秀吉」の収録では、合戦シーンで終日30キロの甲ちゅうを着けたままのハードな体験もした。

「さすがにシンドかったですねえ。でも、自信もつきますから。しばらくやっていないラブシーン、ポルノだってって思いますよ。ちゃんとストーリーがないと困りますけれどね。石原プロでも、この10年間ずっと映画づくりを念頭に置いてきましたしね。先代の遺志ですから。コマサ(小林正彦専務)が、いろいろ大掛かりな企画を考えて、準備費だけでも大作1本分くらい使ったと思います。一時はポルノを考えたことだってあるんですよ。でもプロの全員が“この作品なら失敗しても悔いはない”と思える作品じゃないと、踏み切れませんから。こればかりは」。

一番の息抜きは意外にもたき火だ。

「今でも時々やるんですよ。火をじっと見つめていると、落ち着くんです。すべてを忘れられるんです。自然を感じるからでしょうか。両親の墓がある淡路島に年に3回ほど行くんです。ひと昔前は船に乗ると潮の香りがね。今はないですから。時の流れでしょうか。たき火は変わりませんから」。

「人間50年」と世のせつなさを意識していた信長に近い思いは、渡にもある。

「逸見(政孝=キャスター)さんみたいに、酒もたばこもやらず、みんなに愛された人があっけなく亡くなってしまったでしょう。“なるようにしか、ならない”。それがいつも思っている正直な気持ちですね」。

最初にそう実感したのは34歳の時だった。1973年(昭48)、NHK大河ドラマ「勝海舟」に主演中、高熱が続き降板。石原プロによれば、生死の間をさまよう状態だった。後に現代の難病の一つ膠原(こうげん)病と診断された。

「熱海の病院で療養ということになりまして。入院経験のある人なら分かると思うんですが、夜中におなかがすくんです。こっそり、一緒にお湯を沸かして“カップヌードル”をすする仲間みたいなものができましてね。高校生とか、ハイヤーの運転手さん。もう、職種はバラバラな10人くらいの集まりです。高校生は白血病だった。そんな仲間が一人また一人と亡くなっていく。“なぜ、なんだ”ってね。僕より元気に見える彼らがなぜ。はかないですよ」。

自らの病による痛みやつらさは語らない。「生」への執着も感じさせない。淡々と語る姿は、決して強がりには見えない。

91年、直腸がんの手術を無事終えた後、自らの手記の中で、ストーマ(人工肛門)をつける手術を行う“宣告”を受けた時の心境に触れている。「優しくそういわれると、なぜか涙があふれ出し、とめようがありませんでした……。最後の最後までストーマにわだかまりがあったのでしょう」。ストーマをつける確実な「生還」より、あくまで「美意識」を貫こうとする姿勢がうかがえる。

手術以来、1日1回のストーマの洗浄は必ず自分でする。

「熱がある時でも毎日洗浄しています。医者からはいけないと言われているんですがね。体の方が慣れてくるんですよ。いけないと言われている肉、ビール、たばこ。みんなやってますから」。

術後5年の今は、ウイスキーを1日ボトル半分空けることがあるという。実は、石原裕次郎さんが動脈りゅうのため緊急入院した81年4月まで、渡の酒量はビールコップ2杯が限度だった。

「毎日、病院づめ。先代(前石原プロ社長の裕次郎さんを渡はこう呼ぶ)が、“哲はどうした”なんて、気に掛けてくれる。そばにいればうれしそうな顔をする。離れるわけにはいかないんです。どうせ、家に帰っても夜も眠れない。病院の近くのスナックでベロベロになるまで飲むようになってしまったんです。弱いんですよ。ようするに」。

日活時代からついていくと決めた渡は「裕次郎さんを愛する者が集まった」石原プロの「柱」であり続けた。一俳優として考えれば、最も脂の乗り切った30、40歳代に石原プロ制作のテレビシリーズに出続けたことは、決してプラスだったとは言えない。プロダクション維持の“資金稼ぎ”の意味合いが全くないとは言えなかった。

「正直いって、一人の役者としてやってみたくなる映画出演のお話をいただいたことも随分ありました。一発勝負したいという気持ちもありました。でも、石原プロにはまず“裕次郎さん”がいたし、居心地が良かったんですね。結局、弱いんですよ」。

渡の口にする「弱い」には、自分を殺して周囲に尽くすという姿勢が痛いほど感じられる。本人は「いや、本当に弱いだけなんです」と言う。だが、やはり、これも「美学」ではないのだろうか。

【取材・相原斎、田口辰男】