時代の波にのみ込まれた天才ジョッキーがいた。20歳3カ月の日本ダービー最年少制覇の記録を持つ前田長吉(享年23)。名牝クリフジとのコンビで戦時下のターフに名を刻みながらも、ほどなくして入隊出征。異国の地シベリアで息を引き取った。遺族は代々、伝説の騎手が残した貴重な遺品を守り、伝説を語り継いでいる。戦後80年の夏、伝説の騎手が眠る青森・八戸を訪ねた。
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戦況が厳しさを増しつつあった1943年6月6日、東京・府中で行われた第12回東京優駿競走。牝馬にして1番人気に推されたクリフジの背で、若い才能がきらめいた。6馬身差の圧勝に導いた鞍上の前田長吉は当時20歳3カ月の新鋭。このとき生まれたダービー最年少優勝騎手記録は、80年以上が経った令和の時代になっても破られていない。
名門・尾形厩舎所属の有望騎手だった。大尾形と呼ばれた名トレーナーはのちに自著で、デビュー間もない19歳だった頃の長吉を「天才騎手といえるほどの少年」と回顧した。まだ見習い騎手だったにもかかわらず、長吉はクリフジとのコンビで東京優駿のほか、阪神優駿牝馬(オークス)、京都農商省賞典4歳呼馬(菊花賞)も制した。
甥孫(長吉の兄の孫)にあたる前田貞直さん(74)は、天才騎手の故郷である青森・八戸で暮らす。「僕にとって長吉は大切な存在。そして前田家の誇りです」と実感を込める。愛用のムチやブーツなどの遺品は、「東京競馬場 前田」と毛筆で記された木箱に入った状態で遺族が見つけ出し、丁寧に保管。当時の写真や手紙など、数々の貴重な資料も時間をかけて整理されてきた。
クリフジで変則3冠を達成した翌44年、長吉はヤマイワイで中山4歳牝馬特別(桜花賞)を勝ち、21歳にして早くもクラシック完全制覇に王手をかけた。本来ならさらなる名馬と出会い、数々の記録を打ち立てていたはずだ。しかし時代に阻まれた。同年秋、召集命令を受けて満州出征。親しい厩舎関係者の前では「別れがつらい」と涙したという。45年8月の戦争終結後も旧ソ連の捕虜となり、帰国できなかった。過酷な強制労働、乏しい食環境。終戦から約半年後、シベリア抑留中にこの世を去った。死因は栄養失調とみられる。46年2月、23歳の誕生日を迎えた5日後だった。
戦後80年。記憶と思いは消してはならない。貞直さんは静かに言葉をつなぐ。「競馬にささげるはずだった青春が崩れてしまった。もし自分が長吉なら『なぜ俺はこんなところにいるんだろう』と思ったはず。いつも想像するたびにつらくなる」。06年7月、奇跡的に遺骨は戻った。生家からほど近い場所にある墓の脇には慰霊碑が建つ。そこにはクリフジにまたがる、伝説の騎手の勇姿が刻まれている。【奥岡幹浩】
◆前田長吉(まえだ・ちょうきち)1923年(大12)2月23日、青森県生まれ。42年5月10日に見習騎手デビュー。主な騎乗馬は11戦全勝のクリフジで、43年ダービーなど全てのレースで騎乗した。通算42勝。44年10月14日に入隊し、旧満州に出征。戦後は旧ソ連の捕虜となり、46年2月28日シベリア・チタ州のボルドイ収容所で逝去。
○…伝説のバトンは、幾重もの時代を重ねて受け継がれる。武豊騎手は前田長吉について「そういう騎手がいたことはもちろん知っている。いまこうして競馬があるのも、先人たちがいたからこそ。自分たちも後ろにつないでいかないと」と語る。戦後の競馬再開には、実は武一族も大いにかかわっていた。46年に函館で行われた進駐軍競馬で、執務委員長を務めたのが武芳彦氏。邦彦元調教師の父で、豊騎手の祖父にあたる。函館競馬再興に奔走した功労者の孫はこの夏、「こないだ父の実家に行ったとき、(芳彦氏の)写真を見せてもらった」と明かした。

